人によっては恐怖を感情の一つにカウントする。
しかし違うのではないかとの考えに至った。
結論から言えば恐怖とは感情の前に存在する根源的な生体反応であり、感情はむしろ恐怖の量的臨界突破による心身の破壊を軽減するため、分散装置として生まれたのではないか。
(闘争・逃走反応の怒りと嫌悪と哀しみ。)
また笑いも泣きも感情の臨界突破による心身の破壊を軽減するため、発散装置として生まれたのではないか。
(嬉しい楽しい笑い、悲しい悔しい泣き。)
恐怖→感情分散(怒哀憎)→感情発散(泣き)。
非恐怖→感情分散(喜楽愛)→感情発散(笑い)。
(悲しすぎて笑えてくる、嬉しすぎて泣けてくるのは感情発散の二段構え。)
その根源には原始生物の弱肉強食の世界があり、殺し殺されの地獄がある。
生物は殺される直前、恐怖する。
また殺人鬼は殺す瞬間、笑顔になる。
(身近な社会ではパワハラ上司やイジメっ子であり、殺すのは精神。)
それは敗北と勝利の産物であり、不幸と幸福の結末だ。
しかし人間以外の生物は他の個体を敗北させ、殺しても笑わない。
人だけがいたずらに他者を負かし、踏みにじる。
それは肉体の生存欲から発した欲求からでなく、自我の理想欲から負かすためだ。
同様に人以外の動物は敗北し、殺されようとしても抵抗するだけで泣かない。
死の瞬間、潔く個の消滅を受け入れる。
恐怖は原始的な生物の死亡回避の仕組みだが、笑いと泣きは生物が進化し人類が生まれた結果、感情の異常爆発を回避するための高度な心身保護の仕組みなのだろう。
恐怖を感情の一つにカウントする弊害は、生物の実存の本質を見誤らせることにある。
恐怖、苦痛、不快感。
これら負の刺激をどう許容量に納め、生存を確保するかが生物の使命だ。
しかし感情は肉体の防衛機構である心の生成物であって、恐怖とは防衛機構以前に肉体そのものに襲いかかる。
その発生起源の認識誤差は実存問題、生物の使命を思索する際、微妙な思い違いを生むのではあるまいか。
死の恐怖と向き合うことが実存哲学の大切な課題なら、それを感情の一つとして矮小化することは事の重大さを誤認するしくじりに繋がる気がする。