幼い頃、私の育った家には仏壇も神棚もなく、父は無神論を豪語していた。だから自分もそうだと思っていた。
そのわりに私が通っていた幼稚園は寺が運営していたようで、甘茶や、お釈迦の団子や仏教用語カルタなどに親しんだ記憶がある。
母は信心深いほうだったのか、仏壇代わりに整理箪笥の上に遺影を置いて、お供え物をしては手を合わせていた。
法事や墓参りでは、父の育った山村では「ナムアミダブツ」、母の育った海辺の街では「ナムミョウホウレンゲキョウ」と唱えていた。
おさなごころに「ナマンダブ」は田舎っぽいと感じたが、今では毎日、仏壇に向かって、ありがたく「南無阿弥陀仏」を繰り返している。
きちんと作法や意味を教わったこともないけれど、自分なりに手順を決めて繰り返し真面目に取り組んでいると、なにやら敬虔な心持ちになる。
この習慣を突然やめたら心許無いかも知れない。
朝一番にすることは、神棚の水を替えて、御飯を盛った「おぼくさま」を三つ、仏壇中央の阿弥陀さま、右の親鸞さま、左の蓮如さまの順に供え、カ~ン、カ~ンとカネを鳴らして御念仏。
9日が月命日なので、毎月8日までには新しい花を供える。
ロウソクに火を灯し、お線香の匂いをかぐのが密かな楽しみ。
じいやんが元気だった頃は毎朝毎晩、神棚と仏壇の前で手を合わせていた。それが家長の仕事なのだと敬意を持って見ていた。
なのに今、その代わりを務めているのが自分でいいのかと、せめて夜だけでも夫につとめてもらおうとしたら、ひじょうに不機嫌な様子。
せっかくひとが信仰についてイイ話しとるがに「なにゴチャゴチャ言うとる」だと!?
なるほど、重い話、NGなんね![]()
それでもやるようになってくれて、夕飯の支度に専念できるようになったから助かっている。
こんな些細なことでも喧嘩になるのだから、やはり政治と宗教の話題は避けるべき?
心おだやかに日々を過ごしたい。
ただそれだけなのに。
ひとりひとり、違う世界観で生きているから、家族と言えど難しい。
悟りの境地はまだまだ遠い。