危険物安全協会というのがある。

決して、危険な人物の集合体と言うわけではない。


この地区の危険物安全協会では、

毎年この時期先進地視察をおこなう。

石油備蓄基地だの、原子力発電所だの…

そんな危険物施設を見学するのである。

実は、視察研修の後の大宴会での懇親が、

一番の目的であったりするのだが。


今回の視察地は、佐賀と長崎。


大きな工場での危険物管理施設の見学した後、

雲仙普賢岳の被災地見学をする。

そして、ホテルに着くとそのまま、

長崎新地中華街での懇親会場へと向かう。

2日目は、軍艦島上陸見学と龍馬伝館見学。

とまあ、こんなコースであった。


中華街での宴の後、思案橋近くのラウンジに場所を移す。

行きつけの店かと惑うくらい、リラックスして大いに盛り上がる。


そして、日付が変わる頃、思案橋横丁にある中華料理店に向かう。

八宝菜、酢豚、ちゃんぽん、皿うどん、それにビールと紹興酒を注文する。

一次会の宴とそう変わらない。

夜も更けた午前1時20分、ホテルに戻ったらしい。


幸い、誰一人遅れる者もなく、長崎港大波止桟橋に揃う。

今回のメイン、軍艦島へ上陸見学するのだ。


軍艦島。

正式な名前は、端島(はしま)。


長崎港から20km沖合いに浮かぶ小島である。

かつて三菱の海底炭鉱の拠点で、

地下1000mから良質の石炭を掘り出していた。

石炭産業は日の出の勢いで、

一般サラリーマンの3~4倍の給与の炭鉱夫とその家族で、

島はあふれかえっていたと言う。

まだテレビが普及し始めた昭和30年代前半に、

全家庭にテレビがあったといわれる。

軍艦島にないものは寺と墓といわれ、

狭い島に7~9階建ての高層アパートや学校が建てられ、

その様相が軍艦土佐の姿にそっくりだったらしい。


気圧の谷が通過していたらしい。

思った以上に揺れる。

前夜の遅い宴のスーパイコーが、喉から出てきそう…

自慢じゃないが、船酔いだけは人に負けない。


何とか、船酔いする前に上陸した。

島の見学コースは、限られている。

そして、立ち入り禁止区域には一切立ち入ることはできない。


3つのスポットで、案内を受ける。

最初は、小中学校の校舎と病院、

それに島で唯一の風呂付高級アパートを仰ぎ見るポイント。

二番目は、炭鉱の中心部。

縦穴坑があった後や、運搬ベルトがあった構築物の残骸が、

往年の栄光を思い起こさせる。

最後は、炭鉱夫たち家族の生活空間であった、

重なり合った高層住宅をほんの垣間見ることができる場所。

鉄筋コンクリートが、長年の潮風で劣化して崩れていた。


ガイドの手にする、昔の白黒写真を見る。

鉄筋コンクリートのガレキに、多くの人たちの生活を想像する。

ややもすると、子ども達の歓声まで聞こえてくるような気がしてくる。


まさしく、廃墟である。

昭和49年に閉山となって、無人の島になった。


自分が住んだという訳でないのに、なぜか懐かしくなる。


パッチン(メンコ)やスイガン(ビー玉)を持って走り回っている、

ハナタレ小僧の姿が容易に想像できる。

住居と住居がくっ付いて、プライバシーなどなかった時代。

でも、他人を思いやる温かさがあった。

人のあら捜しより自分のこと、

自分の夢に向かって活き活きと生活していたような気がする。

私にとっても、懐かしいよき時代である。


軍艦島の廃墟は、身に堪えるよな…

誰かが呟いたような気がした。


最近、危険物安全協会の視察旅行参加者は、

めっきり減ってしまった。

昨今の不景気で、

しかも薄利の厳しい商売をしている石油販売店が、

主なメンバーである。

なかなか旅行などに行く気分になれないのかもしれない。


石炭によって生じる蒸気エネルギーが、

大量生産を可能にした。

いわゆる産業革命である。

そして、石炭エネルギーから石油エネルギーに代わり、

モータリゼーションは飛躍的に発展した。



今や、石油販売店の店先には、

まるで投売りのような格安看板が並ぶ。

新しい電気自動車登場のニュースが、テレビで流れる。

環境保護が叫ばれ、

クリーンな太陽エネルギーがもてはやされる。


危険物安全協会の視察旅行参加者たちは、

軍艦島の島影が遠ざかるとともに、

すっかり肩を落とすことになってしまった。


とは言え、懲りない面々ではある。


陸上の人となって、九州道の帰路。

バスの中で憂さ晴らしの酒宴が続いたのは、

言うまでもないことである。