患者輸送限定車。
道路運送法で、輸送の目的を患者に限定された旅客運送車両のことである。
平たく言うと、福祉タクシー。
車イスのまま、ストレッチャーに横たわったまま、車に乗って移動できる。
文字通り重度の患者さんや、
障害者の方が、
車イスに乗ったまま気軽に出かけることができる車である。
昨日、その福祉タクシーのご用命があった。
大きな総合病院から、自宅のそばの民間病院に移るらしい。
介護する方も、自宅から遠い病院だと、通うだけで大変なのである。
ストレッチャーを病室に運んで、ベッドから乗せかえる。
看護師と二人で、ヒョイと持ち上げる。
痩せこけた身体から想像していたが、それ以上に軽い。
長い闘病生活なのだろうか…
その男性患者は、
すっかり落ちこんでしまった大きな目を
キョロキョロとして不安げである。
「もう、大丈夫っすよ!
身体と毛布を固定しますからねぇ~」
と、声かけをする。
見も知らぬ男から身体を触られる不快感を、
少しでも取り除こうとするためだ。
皮と筋だけになった両手に、メモ用の手帳と鉛筆を握りしめている。
治療のためか、病魔のせいか、声を失っているようだ。
そばに付き添う40代半ばの女性に、何度もそのメモを差し出す。
娘さんのようだ。
その度に何度もうなずいていたが、
申し訳なさそうに切り出した。
「病院に着く前に、自宅に寄ってもらいたんですが…
ほんのちょっとの遠回りになるんですが…」
病人を抱える家族は、それでなくとも心の負担が大きい。
快く受け入れてくれると、ホッとするものである。
わざと短く、明るく応えた。
「いいっすよ~」
電話で依頼してきた女性と、男性の患者さんと苗字が違う。
父親の転院に、嫁ぎ先から帰ってきたのだろう。
患者の男性の急な体調の変化に備えて、
看護師が福祉タクシーに乗った。
総合病院から40kmほど走ったところで、
娘さんの自家用車に先導されて、
自宅の狭い庭先まで車を乗り入れた。
車の中から寝たままでも、家の佇まいは分かる。
でも、ストレッチャーをリフトのまま外に出してあげた。
顔を横に向ければ、座敷が見えるはずである。
何ヶ月ぶりかは知らないが、
自宅周辺の空気を吸ってもらいたい。
…そんな配慮である。
座敷の戸を全部開けながら、奥さんが声をかける。
「ジイチャン、こっちじゃわ~
こっちん方を、見らんかぇ~」
車から降りて近づいてきた娘さんも、
家があっちだと、顔に両手を当てて向けようとしている。
ところが、男性は家とは反対の方を向き、
手を振って、娘さんに何やら合図を送っている。
てっきり、寝たままで屋敷内に乗り入れたから、
家の配置が分からないのだろうかと思った。
違っていた。
男性の手の合図を理解した娘さんが、納屋の戸を開けた。
すると、男性は首を精一杯、回して右を向くと、
大きな目を見開いて、納屋の中を覗いた。
そして、安心した顔に戻ると、右手を立てて押し出すような仕草をした。
どうやら、もう車を出せということらしい。
娘さんが、顔を覗き込む。
「え、もういいの?
家の方は、見らんでいいの…?
こっち見たら、座敷の戸を開けちょるんよ。」
痺れを切らした奥さんも外に出てきて、家を見るように促す。
男性は、大きな落ち込んだ目の瞼を閉じた。
とうとう、頑なに座敷の方には、視線を移さなかった。
納屋の左側には、大きなトラクターがあった。
右側の壁には新米が、うず高く積まれていた。
その男性は、今まで何を考えていたのだろう。
澄んだ青空を病室の窓から眺めては、
思い通りならない歯がゆさで、稲刈りに思い馳せていたのだろうか。
そして、すっかり獲り入れの終った米が、整然と積まれている様子に、安堵したのだろうか。
奥さんは、座敷の戸を閉めながら、
指先で目頭を押さえていた。
退院して家に帰って欲しい。
それができないから、せめてちゃんと見ていって欲しい…
という、奥さんの気持ちも痛いほど伝わってきた。
もう30年以上前、48歳でこの世を去った母が、
病室の窓から、移りゆく空の景色を見ては、家に帰りたい…と、
呟いていたことも思い出して、思わず胸がジーンとしてしまった。
寝たままで、家だけ見て満足なんてしたくない…
と、強く瞼をつぶった男性に、そんな強い意志を感じた。
その願いどおり早く元気になって、
家族の待つあの家に帰って欲しいものである。