早いところでもう2月ですね。福岡では先日、数年ぶりに雪が積もりました。2月、雪で私が思い出されるのは、中学生の時に見た「冬のソナタ」でしょうか。私のピアノの十八番である挿入歌「My Memory」が冷え切った心によく染みます(コロナ禍に練習して唯一弾けるようになった曲です)。最近巷では韓流大ブームが巻き起こっていますが、私の中での大スターは今でもユジンことチェ・ジゥただ一人です。


    皆様ご無沙汰しております。僭越ながら、4年生引退ブログのトリを務めさせていただきます元主務の吉安輝己(法・修猷館)です。今回でブログを書くのは2回目となりますが、この機会に是非前回のブログもご覧いただければと思います。併せて、私の同期が紡いだ言葉、それが転がって思いの丈を通り越したブログも遡っていただけたら幸いです。


    先に断っておきますが、本ブログは、かなりダラダラとわけの解らないことを綴っています。というのも、理系の同期が現在も卒論の研究に忙しそうで、法学部で卒論のない私は彼らから妬まれ肩身が狭いので、卒論の代わりと言っては何ですが、せめてもの贖罪として少々長々と書いてみました。ご興味ある方、お時間ある方は是非最後までお付き合いください。では。


    PayPayドームでのリーグ戦最終節を終え、野球部を引退した5月当初は、野球から完全に離れ、失われた華の大学生活を取り戻そうという気概に溢れていました。しかしながら、引退後の余韻に浸りつつもいざ蓋を開けてみると、6月には明治神宮球場まで我らが九州六大学代表の福岡大学の応援に行き、夏は高校野球の甲子園予選のスコアラーを、その後は地元テレビ局でプロ野球中継のスコアラーを務め、気づけば10月のシーズン終了まで野球一色の生活を続けてしまいました(西南学院大学MGのK坂さん、その節はお世話になりました)。更には、先輩である芦谷汰貴さんが火の国サラマンダーズでNPB入りに向け目覚しい活躍を続けていて、彼の試合の中継を常にチェックし、挙句の果てには、ドラフトで彼のライバルになるであろう全国の選手の情報を熱心に収集する始末。やっとのことで野球シーズンを終了かと思えば、現役時代にも増して自己研鑽に励む元主将の安部君の提案で12月の大阪スパルタンレースに出ることになり、そのためのトレーニングを積む毎日(それが高じて、2月の茨城での同レースに単独で、3月の32kmのトレイルマラソンにも大学野球部の同期とともに参戦することになってしまいました)。最近では、同期と会う(遊ぶ)と言っても、朝の7時から大濠公園でトレーニングをしたり、山に走りに行ったり、ジムに行って筋トレをしたりと、まるで選手時代に逆戻りです。それで以て、近況は、①ランニング→資格の勉強→バイト、②資格の勉強or読書→昼からバイト(休養日)、の専らこの二択であって、毎日ほとんど同じ時間帯に起き、同じ内容を厳密にこなすという意味では、まるで修行僧にでもなったかのようです(林檎さん結婚してください!)。


    私は何事につけても形から入りたがる質なので、こういったもののタイトルには非常に敏感になるのですが、特に適当なものを思いつかなければ、これといったデオドラント剤も使っていないので、取り敢えずは最近の関心な話題にでも言及してみようと思います(Kurt Cobainは、彼のスタイルを真似するくらいには好きです。現に、彼に憧れて肩まで髪を伸ばしてみたり、髭を生やしてみたりしたことありました。因みに滅茶苦茶に不評でした笑)。
と、従来であればこれより以下の文章は必要なかったのですが、前回のブログで佐藤君が見事にネタ晴らしをしてくれたので、このまま話を展開する恥ずかしさから急遽追記しなければならなくなりました。今度彼には漫画の最新刊の内容でも、新作の映画の結末でも派手にバラしてやろうと思います。


    さて、私の最近の関心の対象は専ら三島由紀夫であります。彼との出会いは私が中学生の頃だったでしょうか。家の屋根裏部屋にあった父の『金閣寺』を読んだ記憶がありますが、その時彼の作品に対して何を思い、感じたかは曖昧です。そこから長い年月が流れ、本格的に彼の著書にのめり込んだのは、それこそ最近のことで、大学野球部を引退してからです。きっかけは、テレビ放送かネット動画か定かではありませんが、ふと、三島と東大全共闘との伝説の討論会の映像を見たことです。この時代を、誰かが「人間が人間を考える最後の時代」と評したように、彼らは、立場は違えど、本気で日本を、世の中を変えようとしていました。その行為を以てして。


    彼の代表作『金閣寺』の中で、内反足の柏木をしてこう言わしめました。「この世界を変貌させるのは認識だと。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。」一方、主人公である溝口はこう反論します。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない。」


    この「認識」と「行為」の二元対立こそ私の最近の関心なのです。三島は、真理を知るということに至れば、即ち行動しなければならないと説きました。世界を変え得るのは「認識」か「行為」か。彼に言わせれば、それは後者ということになるでしょう。彼は、それを小説の中だけではなく、彼自身の生き様(死に様)でもって体現しようとしました。


    思えば、高校時代、勉強では上には上がいることを悟り、野球ではイップスになりと、文武両道こそがアイデンティであった私は、その存在意義に苦悶しました。そして、当時の私はこう思いました。「精神的でなければならぬ!それに則った、より強固な思想を持たなければならぬ!」


    それで以て、まず先に実践したことは、立場・考えを必ず貫き通すということ。固有の認識、精神、思想を以てして、行為をする。これこそが、私を私たらしめる唯一の道だと。しかしながら、今よりも一段と若かった私は、その基礎となるその固有の認識を、ただ一般大衆と違っていること、時代の趨勢に逆行していることに求めてしまっていました(今でもそうかもしれない)。そして、‘‘一寸でもやわらげばそれは別物になってしまう‘‘、それに純粋に従っていたからこそ、高校時代はアンチを演じ続けるしかありませんでした(今では少し後悔しています笑)。


 最近三島の作品を読み漁るようになったのは、認識の世界の獲得を彼に求めたのに違いありません。野球人生を終え、徐々にその輪郭が濃くなってきた現実に横たわる未だ巨大すぎる闇黒な人生。私はそこに昇る日輪を、彼の精神に、思想に、情熱に、行為に、生き様に探し求めているのでしょう。しかし、そこは光の届かない深海なのかもしれません。


 これは、本来この章の冒頭に述べておく必要があったかもしれませんが、私は全くもって国粋主義者でもなければ、かと言って左翼でもありません。そもそも、彼の一部容認するテロリズム・革命の論理を私は肯定しません。そうであれば、私が三島を好んで読むのは、彼の純粋さに、情熱に、そして物書きとしての天賦の才に、ただ嫉妬しているだけなのかもしれません。


 誰かが歌の中で、「ふたりを通り過ぎた何でもない景色が、僕にとってはそれこそが映画のようだよ」と言ったように、私がこの大学野球で鮮明に思い出される楽しい大きな出来事はほとんどなかったように思います。というのも、大学2年を迎える直前にコロナウィルスにより全世界が未曽有の事態となり、例に漏れず我が野球部もイベントが悉く中止になったからです。本来開催されるはずであった七大戦、インカレ、春季キャンプ等、主務としてその計画をしては潰し、の繰り返しで、練習さえまともにやらせてもらえない時期もありました。その度に友人と、「おれたちの大学生活はなんだったんだろう」「こんなハズじゃなかった」と嘆く日々。そんな毎日の憂鬱こそが、今、何もかも捨ててしまいたくなるような真っ青な空を前に鮮明に思い出されることです。


 だからこそ、4年春のリーグ戦で勝利を挙げたときはたまらなく嬉しかった。この勝利はラストシーズン唯一の勝利(1勝9敗)であるだけでなく、ベンチスコアとして私がベンチでスコアをつけた最後の試合での唯一の勝利(ベンチスコア通算成績:1勝13敗)でした。相手は九州国際大学。相手のベンチスコアは九州六大学野球連盟で共に学生副幹事長を務め、連盟内で一番仲が良かったY﨑君(と勝手に思っているけど、そうだよね!)。最後のバッターを三振に打ち取ったとき、私の大学4年間がちょっとだけ報われたような気がしました。
 


(最終日、九州国際大学Y﨑君との貴重な2ショット)


    思い返せば、リーグ戦の日には、朝4:30に起床、5:00に車で家を出て、他のスタッフを拾って7:00に球場入り。終日リーグ戦の運営をし、球場を出るのが21:00(それでも終わらず球場外に路上駐車して、スマホのライトでスコブックを照らしながら集計をしたことも)。そこから全員を家まで送り届けて、家に帰って時計を見ると0:00を回っていることもありました。


    確かにそんな日々は堪えたし、それが報われないことがほとんどだったけれども、不思議と嫌にはなりませんでした。なんなら球場に行くことが楽しみで毎朝、愛車のウィッシュを飛ばしていました。理由は今でもよくわかりません。多分誰よりもちゃんと野球が好きなんだと思います。


    そんなこんなな大学生活。今確実に言えることは、月並みな言葉ですが、この野球部に入部して本当によかったということです。選手としてプレーもしなければ、ほとんどの試合を負けてしまうような大学野球が今までの野球人生で一番楽しかったと今確実に言えます。もう一度、大学入学時に戻れたとしても、そして再びコロナウィルスが猛威を振るったとしても、私は同じ選択をするだろうと思います。あのとき、高校からの同期の佐藤瞬君が私をスタッフとして野球部に誘ってくれなかったらと考えると、彼には感謝してもしきれません(いつもは仲が悪いですが!)。


    あゝ、僕らの夢は空に吸い込まれて。
    あゝ、僕らの思い出は福岡の空に吸い込まれて。


    今より少しばかり大人になって、忙しない日常にただ時間が過ぎていくのを待ち望む日々。ふと、近くて暗い空を見上げた時に思い出すのは、これらの何気ない学生生活なのでしょう。


    グラウンドに行けばいつも会えた友人たちも。真夏の太陽の光を浴びた百道浜の白い砂も。帰り道にたまに入った学校近くの食堂も。車内で何時もかけていたMr.Childrenの古いトラックも。今ではもう陽だまりの粒です。


    私は、来年度の4月から好きな野球とは全くかけ離れたところでサラリーマンをする予定です。私は自身の若さの、熱情の、青春の全てであった野球を捨てて、社会に出なければなりません。三島由紀夫は彼の遺作『奔馬-豊饒の海・第二巻-』にてこう綴っています。


    「純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。…(中略)…。純粋とは、正反對の観念のほしいままな轉換だつた。だから、純粋は詩なのである。」


    これまでの人生、彼ほどの純粋性はなかったにしても、私の一毫の純粋の対象は確実に野球にありました。毎日のようにコーチに怒鳴られながらも、主将として、勝ち続けた小学生時代。信じて疑わなかった自身の才能が打ち砕かれた中学。高校では、イップスになって野球を辞めたいと毎日思いながら必死に喰らいつきました。そして、最高の仲間に囲まれて、スタッフとして純粋に野球を楽しむことができた大学野球。これまでの人生、ただ純粋に野球に向き合ってきたからこそ、私は往かなくてはなりません。私の純粋の向かう先を知るために。(奇しくも、私の誕生月の旬花はスズラン。その花言葉は「純粋」である。)


    今、夢を見ていた。ここからずっと遠くの夢。ずっと北だ。辺り一面真っ白で、青色のペンキが褪せて掠れたコンクリートの壁だけが無機的に反り立っている。そこに、外套にマフラーを巻いて、永久凍土の底にある愛を探し続け彷徨う男の姿。またすぐに場所は移り変わって、次は少し南だろうか。鋭い列日に照らされながら、滝のように汗を垂らして砂漠を走り続けている。もし、生まれ変われたら、今度はマラソン選手になりたいな。いや、でも、どうせまた、そこには野球ボールが落ちていてそれを手にしていることでしょう。


今、夢を見ていた。「又、会うぜ。きっと会う。グラウンドで」




(野球人生で一番輝いていた小学生時代)




(野球が嫌いでたまらなかった高校生時代)




(先日行われた4年生引退試合で同期と。なぜかいつも伊津野君はいません。)