登山者の遭難時の判断や幻覚の話 | kyupinの日記 気が向けば更新

登山者の遭難時の判断や幻覚の話

 

 

僕は過去ログで人の判断に非常に興味があると記載している。これは上に挙げた過去ログに詳しい。

 

僕はたまに看護師さんや薬剤師さんから、「あら先生、山登りされますか?」と聴かれることがある。この答えはいつも「山登りはしないですね」である。なぜ聴かれるかと言えば、服装がそれっぽいんだそうである。特に冬は防寒のために軽くて保温性の高い服を登山専門店まで行き買ったりする。

 

全く山に登ったことがないかと言えば、学生の時、1度だけ友人数人と一緒に久住山に登った。もちろん登山は日帰りである。微かな記憶では、前泊で温泉旅館に泊まって翌朝出発だった。行かないでも全然良かったが、友人が多く行くので登山靴やリュックを買い準備して登山した。それ以来、このタイプの登山はしたことがない。登山靴もこの1回だけで邪魔になるので処分してしまった。

 

人の判断に興味があると書いたが、もしかしたら遭難し死亡しかねない山に登るという決断も相当なものである。

 

そういえば、高校生の時、体育の学科の授業で、大抵のスポーツはしても構わないが、登山だけはやめておくように強く言われたことがある。それだけ危険なスポーツとみなされていると思う。

 

僕は登山はしないが、登頂成功や遭難の話は非常に興味があり良く調べている。具体的には、登頂成功時の登山過程のその人の判断や、遭難するまでにその人がどのような判断をしたのかなどに興味があるのである。特に登山時の自らの甘い判断のために友人や兄弟を死なせてしまった話などは精神科治療にも参考になる。

 

僕が登山をしないのは、体育の教師に言われたからではなく、体力的に自信がないことや、遭難して死亡した時に、自分の家族や仕事を含め影響が大きすぎることがある。仕事とは実質的には患者さんである。

 

見事登頂した時の歓喜とか達成感に比べ、遭難、死亡時の損失が全く見合っていない。また例えば滑落のために骨折し、生きているが動けない状態になり、その後、死亡するまで時間がかかると言う亡くなり方がかなり惨いというのもある。

 

以下は文春オンラインの「山岳遭難ルポ」の第一人者、羽根田治さんの記事である。彼は遭難した当事者にインタビューし、遭難時の人間心理にも言及している。

 

 

羽根田治さんによると、遭難時に最終的に助かるかどうかは、結局は「運」なんだそうだ。しかし遭難の前後で人知が全く介入しないかと言えばそうではなく、これは「遭難、死亡しやすい」というものはあるらしい。以下は上の記事から抜粋。

 

逆に「生還の可能性を確実に低下させる条件」ならある、と羽根田は指摘する。「それは、遭難したときにすぐに探してもらえないこと、ですね」

 

つまり事前に登山届を出さず、家族などに登山行程も伝えていないケースである。いくら遭難者が奮闘しても、正しい場所を探してもらえなければ、その努力は報われない可能性が高くなる。

 

登山時に道に迷うという遭難パターンがある。このようなとき、わかる場所まで引き返すことが最も期待値が高い対処だが、遭難時の登山者にはこれがなかなかできないらしい。既に1時間とか進んでしまっているとなおさらである。

 

これは精神科薬物療法で言えば、ある薬を試みて、全然良くならないとか、かえって悪くなったなど迷宮に入ったような状態に近い。これはまずその薬を止めてみることが「わかる場所まで引き返す」ことに相当すると思う。しかしこれは精神医療ではしばしば実施されていることである。

 

精神科薬物療法では、精神科医と患者さんで大きく対処が異なる状況がある。

 

例えば、ある向精神薬を止めるという決断。

 

過去ログでは向精神薬、特にベンゾジアゼピンの離脱はインターネット上でしばしば言われているほどの頻度や規模ではないと記載している。なぜ大仰になるかと言えば、離脱などで大いに苦しんだ人がインターネット上でアピールするからである。

 

ある薬を中止する時、離脱ないし精神の変調が起きたら、処方量を元に戻すべきである。つまり増量だが、時に元の用量以上に服薬した方が良い場面すらある。大抵の精神科医はそう指示すると思う。

 

しかし強い決断で「この薬を中止する」と言う前提で薬を中止した人は、これができない。これは登山時に遭難しかかったときに、今来た道を辿って戻らないことに近いと思う。

 

文春オンラインの一連の遭難にまつわる記事はとても興味深く、特に遭難時の幻覚は統合失調症にみられる幻聴、幻覚とは異質なものであることが良くわかる。

 

 

今回の記事の文脈とは異なるが、上の記事の以下の部分はとても興味深い。

 

「その人が中央アルプスの千畳敷で登山者に指導していたときのことだそうですが…」ここでいう指導とは、登山口へやってくる登山者の中で、たとえば装備などが不十分そうな人を見かけたら、「どちらまで行かれるんですか」などと声をかけ、無理がありそうだと判断したら、ルートの変更を薦めたり、場合によっては登山を中止するよう助言することだという。


「それでロープウェイから降りてくる登山者たちを見ていると、ときどき『二重に見える人』がいる、というんですね。その人の背後に、もう1人本人と同じ人が陽炎のように浮かんでいる。要するに腰から上がダブって見える。『そういう人は、後で必ず遭難して亡くなってしまうんです』と。どういう理屈なのかわかりませんが、これは私も聞いていて怖かったですね」


かといって「あなた、山に行くと命はありませんよ」と言うわけにもいかない。それでもその救助隊員は、「二重に見える人」には「ちょっと計画に無理がありますよ」「顔色がすぐれないようですよ」などと声をかけて何とか思いとどまってもらおうとしたが、そういう人たちはみんながみんな「いや、大丈夫です」と言って出発していった。そしてみんな二度と帰ってくることはなかったのである。

 

この記事の幻覚の話。(抜粋)

 

翌日、前日の疲れが残る重い足をひきずりつつ、深仙小屋を経て、太古の辻に着いたところで雨が降り出し、不安な気持ちが少しずつ膨らんでくる。そして前鬼へと下っていく途中で、Kさんはルートを見失って樹海に迷い込んでしまう。さらに7メートルほどの土手から滑落し、小さな渓流に足を取られて流され、ストックや眼鏡などを失ったKさんは初めての野宿を余儀なくされる。


〈足がだるいので足台があればと思ったら、目の前に足台がさっと出てきた。ところが足を乗せるとすとんと足が落ちた〉(前掲書)


もちろん足台などあろうはずもない。Kさん自身も「これが幻覚か」と納得するが、翌日以降、さらに幻覚に拍車がかかる。


〈あちこちに旗が立っており、楼門もある。信者の詰所のような建物もある。渓流沿いに遊歩道があり、公衆電話を探すと下のほうに3台のボックスが並んでいるので向かう。近づくと場所が変わる。そこに向かうが、また別のところに変わる〉〈突然、すぐ近くで男の声がして(姿は見えない)、「この上に宿坊があるから泊まればいい」と言う〉(いずれも8月7日、前掲書)


〈サーッと音がしたかと思うと、まわりの景色がいっせいに光り輝き出した。不思議な光景である。この近くに大きな寺院があって、ライトアップしているのだろうと思う。しばらく見とれていると、そのうちに光が消えてもとの景色になった〉(8月8日、前掲書)


結局、Kさんは遭難から5日後の11日になって奇跡的に救出されるのだが、興味深いのは、幻覚はおもに山中を動き回っていた7日、8日に集中して見ており、一カ所にとどまっていた後半はほぼ見ていないという点だ。羽根田はこう語る。


「不安や焦燥にかられて、がむしゃらに動き回っているときは幻覚を見やすいのかもしれません。Kさんによると『夢はすぐ忘れるが、幻覚はいつまでもはっきりと覚えてるんです。正気の状態で見聞きしたのと同じなので、幻覚だったのかどうかは、後日、合理的に判断するしかない』そうです」

 

この文章の中で語られている幻覚は、その人(Kさん)と幻覚の立ち位置と言うか、幻覚に対する構えが、統合失調症の人のそれとはかなり異なっているのがわかる。

 

統合失調症の人は、「幻覚だったのかどうかは、後日、合理的に判断するしかない」、などとは思わない。


遭難時に見る幻覚は器質性幻覚であり、統合失調症の人の内因性幻覚とは異なっている。

 

参考