ヒトラーの超人的軍隊の謎 | kyupinの日記 気が向けば更新

ヒトラーの超人的軍隊の謎

このブログではたまにナショナルジオグラフィックチャンネルについて触れている。今回は、ナチスに残る都市伝説の真相「超人的軍隊と危険薬物」について。興味がない人は面白くないと思う。

 

第二次世界大戦の初期にナチスドイツが電撃戦という戦術を採用し大戦果を収めた。これはドイツ語でBlitzkrieg(ブリッツクリーク)と呼ばれる。例えば数日間休むことなく戦闘を続けるが、これは生理的な点で通常のヒトには難しいように思われる。

 

電撃戦として最も有名なものは1940年5月10日、ナチスドイツがフランスとベネルクス3国に侵攻した戦いが挙げられる。その初期に僅か86人のドイツ兵が難攻不落と言われていたエバン・エマール要塞を制圧している。以下はウィキペディアから。

 

 

エバン・エマール要塞は最大1200名の兵員収容することができた。戦闘開始時の要塞のベルギー兵は750名もいたのである。要塞は陥落などありえないと思われていたため、あっという間に陥落したことにベルギー国民は震え上がった。

 

当時の従軍神父の日記には、「奇妙な飛行機がエンジンを止めたまま頭上を音もなく飛んでいる」とある。戦争で史上初めてグライダーが使われたのである。

 

また、僅かな兵士により陥落させたため、ドイツ軍が神経ガスを使ったのでは?といった憶測もニューヨークタイムズ紙に掲載されている。ベルギー兵の捕虜はドイツ国内に移送し拘束されたため、長い間、真相は謎のままであった。

 

僅か3人のドイツ兵士は要塞に侵入し、50㎏ほどの成形爆薬で砲台を使い物にならないほどに破壊している。この成形爆薬とは一方向に効果を集中できる爆薬で、それまで鉱山などに使われていたという。

 

ベルギー軍は奇襲のダメージから立て直し反撃を開始するが、僅か86人のドイツ兵は援軍が来るまで耐えて強く戦い、結局5月10日の夜明け前から翌日の午前までたった30時間で要塞は陥落したのであった。

 

このように長時間、休憩も睡眠もなく超人のように戦えた理由は、ペルビチン(メタンフェタミン)と言う覚醒剤が使用されたためであろう。

 

ペルビチンは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に開発され、戦争当時、ドイツでは処方箋なしで買うことができた。その番組では、ベルリンにあるテムラー製薬会社の廃墟のような建物も紹介されていた。中毒性の高いペルビチンだが、一般市民に普通に使われていた社会状況があった。トラック運転手から大学教授、家庭の主婦に至るまで使われていたようである。

 

ナチスドイツはペルビチンがどのくらいの効果があるか学生などを被験者に実験し、戦闘に極めて有用であると言う証拠を掴むのである。

 

ナチスドイツの1939年9月1日ポーランド侵攻の直前、兵士に総計30万錠のペルビチンが支給されている。その結果、兵士は疲れを感じず長時間の戦闘が可能になったのであった。

 

その後、ナチスドイツはフランス侵攻で、連合国が予想もしなかったアルデンヌの森を超えて電撃戦を仕掛けていく。アルデンヌの森は決して小さな森ではなく、見通しも悪く、4日間休むことなく170㎞を突破しなくてはならなかった。しかも歩兵には重い荷物もあるのである。フルマラソンの距離を4日連続で進軍し、しかも最後に戦闘があると言った感じである。連合国が想定しなかったのも無理はない。

 

ナショジオの番組では、石などを入れ重量を増やしたリュックを背負い、当時の兵士と同じペースで歩けるか実験している。全く4日間眠らずに進軍したという仮定では、1時間に1.77㎞歩かないといけない。アルデンヌの森は平地ではなく登ったり降りたりの地形であり、実験では1時間で1.5㎞しか歩けなかった。いかにナチスドイツの兵士が超人だったかがわかる。

 

ナチスドイツ空軍の元パイロットにもインタビューしている。彼によると戦闘機に乗る前に、角砂糖のようなものが支給され、その中にペルビチンが入っているという噂があったという。また、とりわけ危険な作戦の前に指揮官がコニャックのボトルを手にやってきて、「幸運を祈って乾杯」と言ったらしい。これはボトルの中にコニャックだけでなく眠気を抑えるためにペルビチンが入っていることを意味していた。

 

その元パイロットによると、コニャックを飲むと体の状態が変わり、目が冴え、眠りたいとすら思わなくなり、活力が湧いてきて、全く疲れを感じなくなったと言う。また、即座に何事にも対応できるようになったという。戦争にペルビチンが貢献し有利に戦えるようになったのは確実である。

 

番組では、連合国側はペルビチンのような覚醒剤を使っていたのか?という検証を行っている。連合国の戦闘機などのパイロットが撃墜された際に、2~3日は生き延びられるキットがあったという。このキットの中にベンゼドリンが入っていたのである。これはアンフェタミンで、ペルビチンより効果が穏和な覚醒剤であった。

 

チャーチルの主治医はチャーチルに対し、ドイツ軍がフランス侵攻や、バトル・オブ・ブリテンの際にもペルビチンを使っていたことを指摘する書簡を送っている。これはドイツ軍が超人のように疲れ知らずなのはドラッグのためだと注意喚起し、連合国も覚醒剤を使用するように促していたものかもしれない。

 

実際には連合国はベンゼドリンを戦闘に使うことに慎重であった。ベンゼドリンについて連合国は2年半に及ぶ実験を行い、その結果を1944年10月の医学雑誌に掲載しているが、医学的指導の下、慎重に使用するという記載であった。ナチスの姿勢とは全く逆だったのである。

 

ナチスドイツは、当初ペルビチンの副作用を軽視していた。ペルビチンを常用することで、幻覚や妄想を惹起することがあるし、その結果、戦闘場面で事故が起こったりする。例えば神経過敏になりすぎて、僅かな物音に驚き相手を確認せずに攻撃するなどである。またある研究者は失感情症についても触れており、兵士は機械的に戦い、虐殺的な場面での動揺もあまりなかったのではないかと言う。

 

また、次第に支給される以上のペルビチンが必要になる兵士もいた。ハインリッヒ・ベルは当時、22歳の歩兵であったが、次第に支給される以上のペルビチンを欲するようになった。ハインリッヒ・ベルは家族にペルビチンを送ってほしいと何度も手紙を書き、その原文が今も残されている。彼は戦争を生き延び、戦後、偉大な作家になった。彼は1972年にノーベル文学賞を受賞している。(ペルビチン中毒後遺症があったと言う)

 

 

1941年までにはナチスドイツ軍部は、ペルビチンの危険性と中毒性を認識していた。ドイツ政府は民間人の使用を規制するようになった。また、医師たちは戦闘の際にペルビチンを使用しないように軍医に忠告している。しかし、戦場の指揮官はこの忠告を無視するのである。戦争は勝利が全てで、戦争を勝つために命をかけるなら、ペルビチンのリスクなど問題にならないと考えたからである。また、既に連合国との形勢が逆転していたこともある。

 

ナチスドイツは東部戦線で熾烈な戦いの中、ペルビチンは勝利のために使われるのではなく、過酷な戦場で生き延びるためだけに使われるようになった。

 

1942年の冬、ソ連軍に包囲された部隊は夜間、雪の中を何時間も行軍する。気温は氷点下30℃であった。軍医の報告では、雪の中を6時間歩き続け疲労困憊した兵士たちは何度も雪の中に横たわろうとした。生き延びることを諦めたのである。ところが、指揮官の命令で兵士にペルビチンを与えると、30分後には正気を取り戻し再び歩き始めたのであった。

 

精神への影響としては、レニングラードを900日包囲したナチスドイツは、ペルビチンの濫用で正気を失い、幻影に影響されて砲弾を使い果たしソ連軍に降伏したなどが挙げられる。

 

ナチスドイツは、戦争末期、形勢を逆転できる新兵器の開発に注力するようになる。例えばV1やV2ロケットなどである。またジェットエンジンを搭載した戦闘機もそうである。薬物も例外ではなく、より持続性が高く強力な薬物を開発しようとしていた。番組ではD-IXという新薬を紹介している。これはコカイン、ペルビチン、オキシコドン(モルヒネ由来で強力な依存性がある)の3剤が含まれていた。これは化学的根拠のないまま50人の兵士にテストされ、目的は覚醒時間を長くするなどであったが、被検者は幻覚に苦しみ正常な操縦ができなくなった。

 

全体主義的な国家は、国民の健康を始め、いわゆる人権的なものの配慮をしない。人を人とも思わない非情な政府である。そのような国では薬物についても今回紹介したことまでしてしまうのであろう。

 

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