軽度のADHDの人は予測が苦手なのか?という謎 | kyupinの日記 気が向けば更新

軽度のADHDの人は予測が苦手なのか?という謎

ここで言う軽度のADHDとは、なんとか学業や仕事など日常生活ができているレベルの人。診断未満の人たちも含めている。

 

ADHDの人たちの特徴として明確な多動がなくても行動全般に落ち着きがない点が挙げられる。

 

例えば車でA地点からB地点まで行く際に、突然、自分のよく良く知らない道を通っていくなどである。その理由としては道が混んでいたなどがあるので真に行き当たりばったりとまでは言えない。

 

その結果、到着するまでかえって時間がかかったり、道に迷ったり、あるいは交通事故に遭うとか、一旦停止義務違反で警察に捕まるなどの事件が起こる。交通事故に遭遇する理由にも伏線があるのである。

 

しかし、時間がかかるとか道に迷うくらいでは彼らはさほどめげない。そういう生活が、その人の人生そのものだからなのかもしれない。

 

そんな風に考えると、彼らは実はそこまで「予測が苦手」ではないのではないかと個人的には思っている。特に軽い人ではそうである。彼らは、どのようなことが起こり得るかをだいたい予測できている。

 

彼らはそのような一見、不運な結果にそうこだわっていない。集合時間に遅れ、友人を待たせたとしてもそこまで気にしていない。友人も「彼はそういう奴」とくらいに思っており、なんとなく許容範囲に入っている。そのくらいの理解や気持ちでないと付き合えないからである。

 

これらの行動パターンや友人関係などは、長年の習慣でそういう風になっている。

 

彼らは家族から「さほど重要でないことで叱責される」ことは非常に嫌いだ。例えば「出発時間がギリギリになり遅刻しそうになる」などである。「重要でないこと」は彼らにとってで、社会的に重要性が高いとは異なる。

 

いつも思うが、広汎性発達障害の家族は当事者にどのようなことを言わない方が良いのか、あるいはどのような言い方をすればより良いのかあまりにもわかっていない。だから家族関係が険悪になるのである。

 

家族に「そのような言い方はない」と指摘したことがある。それはあまりにも拙いと思ったからである。これは親子なんだからそういう言い方になるが、その一般的というか昭和的な対応がこの場合、良くないのである。

 

話がそれてしまったので元に戻すが、そのようなことから、軽度ADHDの人は「かなりの大物」という評価がついてもおかしくない。社会的に成功を収めている人は特にそうである。

 

これは「ある種の無謀さ」が「胆力のようなもの」になりうるからかもしれない。一般にどのようなものでもそうだが、失敗を恐れないことが大成功に導くことがある。(実は本人は結果をあまり重要視していない)

 

ADHDと自閉性スペクトラムはしばしば合併するが、過去ログでこの2つの特性は欠点を補うことがあるという記載をしている。

 

彼らが「関心のないことに対するテンションの低さ」を呈するのは彼らの特性であるが、「関心のあること」に持続的に関われることを支援するのは自閉性スペクトラム的な要素なのだと思う。

 

また関心のないことに嫌々関わり続けられることも、自閉性スペクトラム的強迫だったりする。

 

彼らの人生の特に早期の運命を考えるに、簡単ではないが、「関心がなくてスタートラインにすらたてない」状況をなんとか支援することが重要なのだろう。

 

参考

自閉性スペクトラム障害と注意欠陥多動性障害の併存の考え方(この記事は相対的なことを言っておりADHDは「前頭が健康」という意味ではない)

2つの仕事を同時に任せられるとダメと言う話