知覧特攻平和会館
8月15日は終戦記念日なので、知覧特攻平和会館に行った時の写真をアップしてみた。知覧は、鹿児島市内からも決して近い場所ではない。考えていたよりずっと遠かった。
案内。
当時の地図など。
知覧特攻平和会館の外には当時の特攻機が置かれている。その解説など。
上は練習機だったようである。
石原慎太郎氏の言葉。
自分は観ていないが、ホタルという映画を記念して造られたものだと思う。特攻で亡くなった兵士がホタルになって戻ってきたという映画。詳しくはウィキペディアなど参照。(自分はホタルも永遠のゼロも観ていない)
会館の中には特攻で亡くなった兵士の手紙を始め多くの遺品が展示されていた。また、屋内にも特攻機もあったが全て撮影禁止だったため撮影できていない。
いつもだが、このような場所では非常に時間をかけて観るため、丸1日潰すことが多い。いろいろ知らなかったことが多かった。(沖縄の陸軍の施設も同様)
平和記念会館の横にある飛行機型に刈られた植木。
特攻隊員の兵舎。
解説。
あまり知られていない話として、特攻の前に音楽学校の2名の学生が最後にピアノを弾くため、当時、交通事情の悪い中、佐賀まで行ってピアノを弾いた話。その時のピアノが展示されていた。
特攻の前に、自分の故郷の上空まで行き、自分の持ち物を落としてから南の方角に向かったと言う。
手紙(遺書)は検閲されるため、差しさわりのない範囲で書かれているが、全ての特攻隊員が喜んで死んでいったわけではない。特攻をしなくても何機も、あるいは何隻も撃墜ないし大破させることができると考えていた操縦術の優れた隊員もいたこと。
当時、敗戦が迫っていた日本の戦況で、あのような無謀な作戦を取らざるを得なかったのであろう。しかし、当時、特攻という作戦は日本以外では、なかなかできないことだったようである。特攻は戦果としては大きくはなかったが、米兵への大きな心理的なプレッシャーになったようである。
特攻機は、攻撃対象を戦艦、空母、駆逐艦などに限っており、911テロなどの自爆テロと同列に語られるのは違和感がある。