昨夜の「象潟での宿」は、清潔感のある部屋で料理も良かったです。入浴は

「日帰り温泉」へと案内してもらい、手足を伸ばし、ほっこりしました。

 

「小砂川駅」まで戻り「大須郷踏切」から、出発です。道なりに国道の

ガードを潜り、右手に「八王子神社」や「庚申塔」のある所の先を、左折

して進み、国道7号線に合流します。右側に「鳥海山」が見えました。

鳥海山
 

「国道7号線」を進みます。綺麗に整備された国道ですか、

交通量は少なく、歩道を歩く人に会う事は、まず無いです。 

 

やがて「こども園」の先で左折して、旧道に入ると「関集落」です。住居表示

が「ウヤムヤノ関〇〇番地」となっていました。「有耶無耶の関」は、古代に

あった「大和政権の関所」ですが、何か関係がある所なのでしょうか?。

ウヤムヤノ関

 

集落内に「古峰神社」と、彫られた大きな石碑がありました。鳥海山

を「信仰登山」する「講」が建てたようで、この先も見かけました。

 

集落の外れ、小さな川の河口付近に「鮭のふ化場」があり

ましたが、今はシーズンオフなのか、人影はなかったです。

 

その先で「国道7号線」に復帰し「市役所入口」交差点を左折して

進むと「古四(こし)王神社」がありました。北陸を征討した「大彦命」

を主祭神とする神社(諸説あり)で、新潟、山形、秋田に多いそうです。

参拝しましたが、境内には「庚申塔」「出羽三山碑」「猿田彦塔」

等が、所狭しと立っていました。神社は幕末の再建との事です。


その先の「古峰神社」を過ぎると「象潟の街」です。街は「北前船

の寄港地」「九十九島観光」や「鳥海山修験者の登山拠点」として

賑わいましたが、今は、もう「その面影は」ありませんでした。

木戸跡

かっての「象潟宿」は、南側が「矢島藩」北側が「本荘藩」に、二分され境界に

「木戸」があったようで、木戸の北側(本荘藩側)に「旅人宿」等が並んでいました。

 

「旧象潟宿」です。名勝「九十九島」があったので、多くの文人が宿泊

しており、芭蕉が宿泊した「向屋」。菅江真澄が宿泊した「岡本屋」

明治の文豪・田山花袋が宿泊した「秋田屋」等の説明板がありました。

 

街外れに「熊野神社」があり、戊辰戦争で「秋田藩士」が、髻を切って奉納し

「三崎山の戦場」に向かった話が、残されています。その先の「象潟橋」付近

から「九十九島観光の船」が出たようで「船つなぎ石」が残っていました。

「象潟橋」から見た風景ですが、この川が「九十九島観光の船」

が、出ていた「江戸期の川」そのものかは、不明です。

 

国道7号線に入ると、すぐ右手に「蚶満(かんまん)寺」があり

ます。九十九島は、幕末の地震で「土地が隆起・陸地化」した為

船の遊覧は不可能となり「蚶満寺」から、眺める事となりました。

 

「蚶満寺」から見た、今の九十九島です。鳥海山を借景に「海に幾つもの小島」

が浮かぶ景勝の地も、今は「田んぼに、松のはえた小山」が点在する所でした。

九十九島には、少し「休耕田」がありました。水田なら、まだ「かっての

雰囲気」も感じますが、休耕田が多くなると、景観が損なわれる気もします。

 

国道7号線に戻り、北上します。やがて左の側道に入り「金浦駅」

方面へと、左に「海を見ながら」進んで行きます。右折する所の

左上に「石仏が3体」があり、何かの信仰の地にも思いました。

 

3体の石仏のすぐ下に「牛頭天王」と彫られた石碑と「出羽三山塔」があり

ました。牛頭天王は「厄病退散の神」とされます。北国路では、珍しいです。

 

更に進むと、右手の高台に「南極探検家・白瀬中尉」の生家

「淨蓮寺」があり、彼のお墓があるので、お参りしました。

白瀬は明治末期、探検隊を組織し小さな船で「南極」に向かい日本人

として初めて「南極に上陸・探検」した人です。帰還後は、渡航費用

等の「莫大な借金」を一人で背負い、その返済に一生苦労しています。

 

境内に、銅像がありました。「酒を飲まない」「たばこを吸わない」

「茶をのまない」「湯をのまない」「寒中でも火にあたらない」の

「5つの戒め」を生涯貫いた人で、意思の強い人だったのでしょう。 

 

「淨蓮寺」を後に「金浦の町」へと、入って行きますが、

どこの地方都市も一緒で、商店街に元気がなかったです。

 

街中を、右左折して抜け「金浦山神社」の所で、県道、続いて「国道7号線」

に合流して進みます。右手に「三嶽神社」の前を通る細い旧道があり、右折し

「芹田交差点」で、国道を横断して「日本海方向」へと、進んで行きます。

牛頭天王の石碑

交差点の先に、大きな幕末の「牛頭天王」の石碑がありました。「厄除けの神」

として、村外れにあったと思いますが、牛頭天王が、この辺に多いのは謎です。

 

道なりに進み「海辺の町」へと入って行きます。時々、民家の間

から海が見え、町中には相変わらず「庚申塔」「出羽三山碑」等が

多いです。「波切不動尊」の標柱がありましたが、実物は不明でした。

 

海辺の町を、どんどん進んで行くと「仁賀保神社」がありました。ここは

旧領主「仁賀保氏」の陣屋があった所です。仁賀保氏は、鎌倉武士の流れ

を汲む、伝統のある氏族で「旗本として」明治まで存続しています。

今日は、この神社で終了です。約8時間の、まだまた暑い、1日でした。

この後、すぐ近くにある宿泊予定の「駅前旅館」へと向かいました。