最近お尻に違和感があり、医者に行くと以前発症した「狭窄症」再発の前兆
との事でした。年齢と共に経年劣化するので、養生するしかないようです。
そんな事もあり、今回は遅めの13時過ぎに「徳山駅」に到着し、前回
の終了地点の「駅前」から、広い県道を西へと、歩いて行きました。
かっては、駅周辺に「本陣」や「旅籠」があり、少し離れて「毛利の支藩」だった
「徳山藩」の「陣屋」がありましたが、空襲で焼失し遺跡類は、残っていません。
県道を暫く歩くと、新幹線の高架に来ますが、街道は新幹線の工事等
で消滅しており、高架下の側道を、右・斜めに進み、別の県道に合流
「浦山交差点」を渡り、角にあるビルを左折すると、旧道となります。
旧道です。旧街道の面影を残す「ほぼ真っ直ぐな道」を進むと、途中に
ある工務店付近に「一里塚」があったようですが、その詳細は不明です。
更に進むと「富田川」の手前右に「荘寺八幡宮」の古い常夜燈が
ありましたが、上部が「五輪塔の一部」にも思え、違和感を感じました。
右手に、平家由縁の「川崎観音」が見えますが、今回は失礼しました。
富田川を渡ると「政所地区」です。かって「富田川の水運・物流」や「東大寺
の年貢米」等を、管理する役所(政所)が置かれており、その名残のようです。
真っ直ぐな旧街道は、「山崎(荘寺)八幡宮」の所で右・左折しますが、
手前の角に「左 上方道。右 下関道(現代訳)」と彫られた道標が
ありました。「下関」の地名は「明治35年」に、それまでの「赤間」
から変更されていますので、道標もそれ以降の、新しいものです。
八幡宮を左折すると「富田地区」です。真っ直ぐな道を進み、突き当り
を左折、県道を越えて、今度は右折して更に進むと「二又」があります。
二又の、右の道が旧街道で「民家の庭先」を通って進むと、県道に出ます。
旧街道の名残↑
県道に出ると、すぐ左側に「小さな坂道」が見えます。これが
旧街道の名残「温田峠」ですが、峠と言うより、短い坂道です。
坂道を登ると「温田観音」があり、かっては「一里塚」「駕籠立場」
「茶屋」等が並んでいたようですが、今は、遺跡も面影もありません。
温田観音は、石の祠に収納されており、拝観出来ませんでした。
小高い所なので、古来から、景観の良い所だったのでしょう。
短い坂道(峠?)を下り、一旦県道に合流しますが、すぐに
右にある旧道に入り「福川宿」へと、進んで行きます。
突き当りを右・左折すると「福川宿」です。 右手にある「真福寺」が臨時
の脇本陣を務めたようで、立派な本堂(江戸初期?)のある大寺でした。その
先に「篤姫」が宿泊した「福田・本陣家」があり、本陣門が残っています。
右手が「本陣門(幕末)」で、近年保存改修されています。他県の本陣や旧家の
前には大概「明治天皇碑」が立っていますが、流石に長州藩内では、見かけません。
福川宿を出て道なりに進み、県道やJR線を越えると「御姫橋」に
出ます。御姫橋の由緒は、良く判らないようです。街道筋は橋を
渡らず、右折「夜市(やじ)川」の土手道を、暫く歩いて行きます。
歩いていると、高速道路の下に、突然「全面通行止め」の看板があり
厳重にバリケードがしてありました。ガードマンの配置もなく、連絡先も
書かれず、工事の現場も見えません。看板に、国道2号線へと迂回路が
書いてあったので迂回しましたが、歩行者まで通さないのは、不思議です。
国道を迂回し「夜市川」沿いに戻って、暫く歩くと、又
「全面通行止め」で、迂回路が書いてありました。折角戻ったのに
又迂回とは・・。「通行人の利便」は、全く考えていないようです。
写真は、一旦戻った「夜市川沿いの道」です。この先が、又
「全面通行止」でした。この手前に「一里塚」があったようです。
二度、迂回させられましたが「夜市川沿いの道」に戻り進みます。街道筋は
やがて右方向へ進み、JR線や国道2号線を横断し「夜市地区」へと進みます。
旧街道筋↗
今日は、この先の「国道2号線との交差点」で終了です。この後「戸田駅」
まで歩き「防府駅前」のホテルに向かいました。約3時間半の、緩い行程
のはずが、2回も迂回路で遠廻りさせられ、散々な目に会いました。