昨夜は、世話になった元上司と旧交を温めました。酒豪で愛煙家で
したが、流石に今は控えられていました。趣味で陶芸をされており
別れ際に「遺品」と言って、お猪口を貰いました。自信作だそうです。
 
朝、少し二日酔い状態でしたが「元安川」畔のホテル出て、満開の
桜の下を通って「元安橋」へと向かい、出発しました。
前方に見えるのが「元安橋」で、その右手に「原爆ドーム」があります。
元安橋を渡り「原爆死没者慰霊碑」の前で、黙礼をしてから進みました。
 
「太田川」を越え、更に「天満川」を越えると「天満地区」です。
天満地区には、かって「広島宿」の「西の宿」が設けられて
おり、各種の災難除けに「天満神社」が、祀られてました。
街道は、元安橋からほぼ直線でした。城下町ですから、桝形等が
あったと思うのですが、戦後に区画整理されたのかも知れません。
 
「己斐(こい)橋」を渡り、90度左折すると「西広島地区」です。左折する
地点に右から、昔の山陽道が来ていたとする説があります。改築され
新しくなった「西広島駅」を右に見て、更に進むと「別れ茶屋(跡)」です。
かっては、旅立つ人を見送る人達は、ここで別れを惜しんだ所
でした。写真の赤いテントのお店が「別れ茶屋」の跡だそうです。
 
その先「西広島バイパス」の高架を潜った先に「(高須)一里塚」があった
ようですが、説明板類がなく詳細は不明です。「上田宗箇」を始祖とする
「宗箇流」茶道の家元家を過ぎ、更に歩くと「鷺森神社」があります。
神社は、当時は海辺だった草津の東端に、海の神「市杵島姫命」
を祭神として創建されています。爆心地から5㎞の地点にある
この神社の社殿は、爆風に耐え(近年改修)て、残ったそうです。
 
その先に、幕末から酒造業を営み、大きな酒蔵のある「小泉家」
があります。今も「厳島神社」のお神酒を、造られています。
小泉家の道路向かいに「明治天皇碑」がありました。厳島神社に
向かわれた「明治天皇」が休憩された名誉を、祈念するものです。
 
旧街道の雰囲気を残し「間の宿」でもあった「草津の町」は、名物の
「大石餅の石臼」や、貴重な飲料水「大釣井」等が、残されています。
「大石餅屋」さんは、廃業されていしたが、昔は景色のよい所に茶店
があり、旅人が休憩を兼ね「大石餅」を食べて、出立したようです。
 
街道はやがて「井口の町」の旧道へと入ります。「広島のベッドタウン」
として、草津の町も含め、駅周辺には、マンションが多かったです。
 
旧道の坂道を登って行くと「正順寺」があります。この辺は「入り江」
で、街道は、海辺を避けて、この寺の北側から「小己斐(龍神)山」を
越えていましたが、宅地造成で「小己斐山」は崩され、消滅しています。
正順寺の裏に、僅かに残る旧街道の峠道です。
 
住宅地を右左折した公園内に「(井口)一里塚」石碑が立っていました。
僅かに残る峠道を登った先の、この付近に一里塚があったようです。
住宅等で埋め尽くされた「小己斐(龍神)山」を右左折しながら
舗装道路を下り「八幡川」を越えると「五日市の町」へと入ります。
 
五日市は、やたら交通量が多い所で、うろうろせず、次に進み
ました。途中に「街道の名残松」がありましたが、以前より本数が
減った気もします。更に進むと「(佐方)一里塚」の石碑があります。
石碑は、大きいです。「西国街道壹里塚跡」と刻まれていました。
 
「佐方中橋」を渡ると、ここにも「旧街道の名残松」がありました。
この左手の「小高い丘」が、かっては海に囲まれた「桜尾城(跡)」です。
桜尾城は、鎌倉幕府の官僚「中原親能」一族の「藤原氏」が「承久の乱」
後に「厳島神主」となり、厳島神社と佐伯郡を領有し、厳島神社の対岸に
面したこの地に「海城の桜尾城」を築き、以後320年間拠点とした城です。
 
すぐ先を左折して、桜尾城(廿日市市)に立ち寄ってみました。城跡は、
桜が満開で家族連れで賑わってましたが、城跡は単なるグランドでした。
 
「廿日(はつか)市招魂社」を右折すると「廿日市宿」の中心です。廿日市は
「厳島神社の神領」で、毎月廿日に定期市が立った事に由来します。幕末の
長州征伐に際し、広島藩の手で宿場は「予め焼かれた」そうで、無茶な話です。
右に天満宮があり、左側にある「中央公民館」が「旧本陣・山田屋」だったよう
です。公民館は建て替えらており、跡地を示す大きな石碑があったのですが・・
 
廿日市宿は、中心部を離れると寂れていました。街道はこの後
「山陽本線」を越えて左折「宮内串戸駅」の横を通って進みます。
 
宮内串戸駅を過ぎ「御手洗川沿い」を満開の桜に癒されながら
進みます。高速道路の高架を潜ると「(宮内)一里塚(跡)」です。
左に、一里塚跡の石碑が見えます。この石碑も大きいです。
 
街道は県道を越えて直進し「砂原大橋」を渡って県道に合流、以後
数回「県道と旧道を出入り」して進みます。沿線には大型店が並び
賑わっていました。街道(県道)は徐々に、急坂になっていきます。
 
「野村病院」を過ぎると、津和野方面と分岐する「畑口橋交差点」となり
街道は左折します。すぐ先に「夜泣き石」と呼ばれる「小さな供養塔」が
あり「南無阿弥陀仏」と彫られているのですが、摩耗が酷く判読不明でした。
     ←旧山陽道   津和野街道↑   
 
「四郎峠」を登って行きますが、急坂で苦しいです。その上交通量
が多いのに歩道がなく、難儀な道でした。「宮内 大野村境」と
掘られた「村境碑」のある、頂上に着いた時は、ホットしました。
 
昔「大野五人兄弟」が開墾したとする「大野」へと下って行きます。
失礼ながら、この辺(中山集落)は、山中なのに大きな家が多かったです。
 
下った所に「今川貞世(了俊)の歌碑」が「観音堂」と一緒に
ありました。今川貞世は「足利義満」に「九州探題」を任ぜられ
九州へと赴く途中の、この地での「景色を歌」に詠んでいます。
 
歌碑のある所を右折して、旧街道らしい雰囲気の山道を
進むと、左手に「(中山)一里塚(跡)」の石碑が、ありました。
判りづらいですが、ガードレールの向こう側に
「史跡一里塚跡」と彫られた「石碑」があります。
 
山道を抜けると「五兄弟」の末弟「十郎」が開墾した「十郎原」です。
以前は、民家の横を進む「土道」でしたが、今は舗装されていました。
 
住宅地になると、広い舗装道に変わりますが、短い土道も残されています。
土道に入ると、何故か高揚します。途中「三槍社」や、次郎を祀る「新宮神社」
「山上憶良」の歌碑のある「古代山陽道の駅跡」等を、見ながら進みます。 
「貝塚跡の案内」も多かったので、この付近まで海が入り込んで
いたのでしょう。道端にある民家は、何故か新築の家が多かったです。
 
幕末の長州征伐の時、幕府軍の検問所があった「陣場」を過ぎ
新幹線を潜ると「大野浦の町」です。新幹線を潜った付近は
「筏津(いかだづ)」と呼ばれ、かっては入江だったようです。
 
整然とした住宅の並ぶ「大野浦」の町を暫く進みむと「大野浦駅」に
到着します。駅の改築に伴い、ここにもある「今川貞世(了俊)の歌碑」
や一里塚跡の石碑は、以前の場所から線路横に、移動していました。
本日は、ここで終了し帰宅しました。約7時間程度の行程でしたが、
通過する「街道筋の町々」は、広島の「ベッドタウン」として成長し
ており、昔ながらの狭い道に、自動車が行き交う「せわしない旅」でした。