足の調子が大分良くなったので、以前から再会の約束していた広島在住
の元上司と、本日会う約束をした事もあり「中野東駅」に戻って来ました。
丁度桜が満開(4/5)で、街道筋に咲く桜を見ながらの旅、となりそうです。
 
中野東駅から、旧街道の名残を残す「狭い道」を暫く進んで行くと、右手
民家のブロック塀の端に「(鳥上)一里塚跡」の石碑がありました。石碑の
裏側に「北へ39.4m」と刻まれており、本来の跡地を示しているようでした。
狭い道なのに、交通量が多いです。前後から来る自動車に、気を
取られ「ゆっくり散策」とはいかない道で、少し残念でした。
 
「安芸中野駅」を過ぎ、道なりに進むと「瀬野川」の堤防沿いに小さな
松林がありました。藩主を、家来や村の有力者がこの辺りで「出迎えた」
ことに由来する「出迎え松」だそうで、往事の松が、数本残っています。
 
更に進むと右手(左に常夜燈)に「春日大社」から、鎌倉期に勧請された
「春日神社」がありますが、遠そうなので失礼して、その先にある
「海田ふるさと館」(海田町)の裏手に「古墳」や「海田観音免の楠木」
がある「公園」があるので、小休止を兼ね、立ち寄りました。
小さな公園ですが、桜が満開でした。楠木(広島県天然記念物)の名は、
後ろにある「観音堂」に由来しているようです。古墳は今ひとつでした。

街道を進み、右にカーブすると「海田市宿」となり、右手に
「御茶屋跡(本陣)」の案内板がありますので、行って見ました。
お茶屋跡です。明治初年には小学校に転用されていたようですが、今は私有地
となり、立ち入り禁止でした。この付近一帯が「御茶屋」の敷地だったのでしよう。
藩営の「御茶屋」は、本郷宿、四日市宿、海田市宿等大きな宿場にありました。
 
更に進むと、左手に「旧千葉家住宅」があります。祖先が。鎌倉武士の
「上総介平忠常」とされる旧家で宿場の役職や、本陣の代用も務めた
ようです。その先にある「旧家・三宅家」は、この地の大地主でした。

千葉家の手前に「海田公民館」あり、脇本陣「加藤家」の跡地なの
ですが、解体中でした。海田町出身でオリンピック「初代金メダリスト」
の「織田幹雄・記念館」が、近くにあるのですが、判らなかったです。
 
宿場を過ぎると、徐々に坂道となります。途中に「(海田市)一里塚跡」の
石碑が立ってました。松が植えられていた塚は、大正期に壊されたようです。
右手「カーブミラー」の所に、石碑があります。
 
街道は「船越峠」(広島市)を越えて行きます。峠と言っても、今は
都会の中の「長い坂」で、道路沿いの民家は空き家が多かったです。
 
船越峠を越えると、広島市から「府中町」に入ります。府中町は
平安期以降「安芸国府」が置かれた所でしたが、今は自動車メーカー
「マツダ」の本社もあり「日本一人口の多い町」として有名です。

広島市→海田町→広島市→府中町→広島市。ややこしいです。
 
街道は、僅かに残る旧道を出入りしながら峠を下り「永田交差点」
から、右にある旧道へと入り、小さな社「恵比須神社」がある所を
左折して、マンションや民家が並ぶ「狭い道」を進んで行きます。
 
「府中大橋」を渡り「大通り」に合流した、少し先の右側歩道沿いに、
新しく「矢賀一里塚跡」(広島市)の石碑が、立っていました。
平成26年(2014年)に立てられたようです。街道を歩く者としては
「一里塚碑」は「歩く目標や励み」になり、増えてくれると嬉しいです。
 
広島市街地に入ると、マンホールが「西国街道」をイメージして
いました。図柄は、広島城と川の街・広島で働く職人だそうです。
 
JRの芸備線ガードを潜って、すぐ先で大通りから、右へと旧道を進んで
行きます。途中、原爆投下時の写真が置かれた「法明寺」があり、その先
で90度に左折します。この角が「福島正則」が、山陽道を広島城の南側
を通るように、改造した際の「曲がり口」だとする、説もあります。
街道は左折。旧来の山陽道は直進していた???
 
左折して進んだ先に「三本松」があります。豊臣秀吉が「名護屋城」
からの帰りに、ここに「並木松を造らせた」とする伝説に基づく
もので、その街道松は枯れ「三本だけ残った松」が由来だそうです。
「細い松」が植わってましたので、何代目かの松でしょう。隣の
「交通安全地蔵」に女性が、熱心に拝まれていたのが気になりました。
 
「広島駅」を右に見て、JR線の線路を渡って進むと広島城下の入口
だった「猿猴(えんこう)橋です。この橋は、原爆の爆風やその後の
台風の猛威にも耐えましたが、老朽化の為近年付け替えられています。
なお「猿猴」は、伝説上の「猿に似た河童」の一種だそうです。   
橋の近辺は、桜が満開で多くの方が、花見をされていました。
 
「猿猴橋」「京橋」を渡り、街道は左右折して進むと「旧広島宿」
です。今は広島隋一の繁華街となり、大勢の人で賑わっていました。
 
パルコ横の「桝形」を抜けた先が、かつての「広島宿」の中心でした。
その先にある「広島県民センター」付近に、本陣(お茶屋)や脇本陣があった
ようで、その裏手にある「島病院」(現、島医院)が、爆心地とされています。
原爆は、この病院の上空600mで、爆発したようで多くの外国人が訪れていました。
 
爆心地近くの「元安橋」に来ました。橋の袂に「広島市道路元票」
があり、ここが広島の一里塚等の起点で「高札場」もありました。
かっては、太田川の水運を利用した、交通の要衝でもあったようです。
元票は、原爆の影響か?摩耗しており全く読めません。
多くの観光客も、この元票には興味がないようで、素通りでした。
 
本日は、元上司との再会予定があり、この後「平和記念公園」
と「広島城」を散策予定なので「元安橋」で歩き旅は終了と
しました。今日は、約4時間の緩い行程でした。
「元安川」越しの「原爆ドーム」です。写真の左端に見える
「相生橋」が、本来の「原爆投下目標」でした。
 
世界遺産「原爆ドーム」です。正式名は「広島県物産陳列館」
(大正4年竣工)で、チェコ人の設計だそうです。平和記念公園は
丁度桜が満開で、多くの外国人観光客等で、賑わっていました。
 
この後、近くにある「広島城(跡)」を訪れました。毛利輝元により
「太田川」の三角州に築城された城で、江戸初期「福島正則」により
拡大・整備されて以後、1945年の原爆投下まで、現存していた城です。
今は、本丸と二の丸跡のみが残されており、現状の城の建物は、
1958年以降に、順次復元されたもので100名城に選ばれています。
 
広島城天守です。1958年の再建なので「耐震設計」がされておらず
再来年には「閉鎖され」その後の天守再建計画は、未定のようです。
ここも、外国人観光客が多かったです。この後、城内にあった「大本営跡」
を見て、元上司との待ち合わせ場所「原爆ドーム」へと戻りました。