昨夜は、柏崎駅前のホテルに宿泊しました。コンビニ弁当を食べた後

駅周辺を徘徊しましたが、特段のものはなく、早々にホテルに戻りました。

 

さて「柿崎」に戻りスタートです。歩いていると「旅館・扇谷(跡)」がありま

した。ここは「旅館・扇谷」に一夜の宿泊を断られた「親鸞」が、扇谷の軒下で

風雪に耐えて「熱心に念仏を唱える」姿を見て、断った「扇谷の夫婦」が心打た

れ、その後「熱心な信者」になったとする「渋々宿」の逸話を、残している所です。

立ち寄りましたが、綺麗に清掃された気持ちの良い所でした。

「旅館・扇谷」は、その後「僧坊」になり、戦後まであったそうです。

 

柿崎の街を出て、海沿い・線路沿いの旧道を進んで行くと、

線路そばに若い「撮り鉄」さんが、数人おられました。

旅していると「とり鉄」さんを、チョイチョイ見かけます。。

振り向いて、撮影しています。

 

旧道から「国道8号線」に合流し、暫くすると、左へと「鉢崎地区」に入って

行きます。ここは難所「米山峠」を控えて「鉢崎関所」があり、大いに栄えた

宿場でしたが、反面、年数回の「佐渡の金銀輸送の宿泊地」に指定されており

その「徹夜警護に駆り出される」等、宿側の負担も、大きかったようです。

 

右手に松尾芭蕉が「奥の細道」旅で宿泊した「たわらや(跡)」

がありました。たわらやは、地元の名家でもありました。

 

すぐ先左手、坂道(米山峠)が始まる所に「鉢崎関所(跡)」がありました。

関所は「高田藩の預かり」で、朝6時~夕方6時まで、木戸が開き

「夜間の通行は禁止」でした。ただ飛脚等は、例外だったようです。

     ← 関所跡

 

いよいよ、幾つもの峠を越える「米山三里」の難所が始まります。

「葛籠折りの坂道」を登って「強風の吹く・聖ケ鼻」の崖道に向いますが、

2007年の「中越地震」で崖道が崩落し、途中で「通行不能」でした。

昔は、この崖道を通り、向こう側の「上輪集落」へと、降りていました。

「足を滑らせると」崖下と転落して「間違いなく死亡する」恐ろしい道です。


通行不能の「聖ケ鼻」から、一旦国道8号線へと迂回「米山トンネル」

を抜け、国道から左へと、谷底の「上輪集落」へと降りて行きます。

「聖ケ鼻」同様、海から吹き上げる強風で、吹き飛ばされそうです

 

上輪集落では「題目塔」「米山(薬師)塔」「二十三夜塔」等を、見かけま

した。厳しい生活環境の中で、信仰心が篤かったのかも知れません。集落を

抜け、強風に難儀しつつ「亀割坂」を登って行くと「六宜閣」となります。

「六宜閣」(幕末)は、以前はこの地域の「庄屋さん」でした。玄関

の所に「明治天皇碑」が立っていましたが、休憩されたようです。

 

六宜閣から、坂道を登り降りして、歩いて行くと、地層が湾曲した

「牛が首層内褶曲」が見えました。米山周辺に多い地層だそうです。

この辺からは「佐渡」が見えるそうですが、生憎今日はダメでした。

 

旧道を、谷底の狭隘地にある「笠島地区」へと、細い道を降りて行き

ます。底の部分に「JR笠島駅」があり、笠島地区は一寸した街でした。

 

駅からは、一転急坂を登って行きます。道筋には、多くの「庚申塔・二十三夜塔」

「石仏」等がありましたが、ここも信仰心が篤い土地なのかも、知れません。

前方に米山が見えます。

 

街道は、一旦国道8号線に合流し、すぐに旧道へと分岐して進むと

「明治天皇行在所」碑があります。その先の「酒屋」さんの所に、

階段があり、谷底の「青海川集落」へと、また降りて行きます。

 

「青海川集落」に降りて来ました。ここは、民家も少なく過疎化していました。

上に見える橋が「国道8号線」で集落を抜けると、又登坂(六割坂)です。


「六割坂」を登り、国道を越えて「道の駅・米山(休業中?)」まで更に登って

Uターンし、国道に合流します。途中に「右ハ かみがた道」と刻まれた

「地蔵道標」がありました。上方へ通じる道と認識されていたのでしょう。

鉢崎から「国道8号線」を歩けば「楽だし、すぐ」の道のりを

わざわざ、登り降りして「3時間半」。「ショートカット」の誘惑

に駆られながら、何とか「難所米山三里」を、踏破しました。

 

街道は、国道を下り「リゾートホテル?」の所から「鯨波の街」へと入って

行きます。道端に「庚申塔」「三猿の彫られた青面金剛像」があり、横に

「右 上方道」「左 米山道」(現代約)と刻まれた、江戸期の道標もありました。

                

 

「鯨波の街」を進んで行くと、少し開けた所から「米山」が見えました。

越後平野にある「独立峰」なので目立ちます。古来から信仰の対象でした。

 

JR「鯨波駅」の地下道を通って、更に進むと「薬師堂」があり、その先の

「諏訪神社」境内に「お光・吾作の碑」がありました。有名な「佐渡情話」に

登場する「佐渡・小木の娘お弁」と「番神村の大工藤吉」のモデルとされます。

佐渡情話では「お弁と藤吉」が密会したのが、番神岬で、毎晩佐渡から

お弁が「たらい舟」を漕いで、海を渡って藤吉に会いに来たとされます。

尤も、佐渡・柏崎間60kmを、若い娘さんが、たらい舟を漕ぐ実証実験

をした所、片道だけで、16時間半かかり、元々成立しない話のようです。

 

「諏訪神社」の奥に「番神堂」があります。佐渡へ流罪となった「日蓮」が

許され帰路の途中、嵐に会い、流れ着いたのが番神岬とされます。日蓮が

無事だったのは「八幡菩薩」のお陰として、後年にお堂が建てられました。

 

弘法大師の逸話を残す「お茶池」を過ぎると「勝願寺」があります。幕末

「桑名藩士」の一部は「桑名藩が新政府に恭順」したのを「良し」とせず

藩主「松平定敬」(会津藩主の弟)を盟主として、桑名藩の飛び地領「柏崎」で

新政府軍と戦い(鯨波戦争)ますが、その時の「本陣」が勝願寺でした。

「勝願寺」には、鯨波戦争で亡くなった33名の元桑名藩士の供養墓があり、

参拝しました。旧幕府側の「元桑名藩士」は、その後も戊辰戦争を戦い、

最後に「庄内藩」と共に降伏しています。この時の桑名藩の指揮者の一人

「立見鑑三郎」は、後に明治政府に請われ、陸軍に入り、大将になっています。

 

「鵜川」を渡り、宿場町だった「柏崎の街」へとはいりますが、その手前に

桑名藩の「柏崎陣屋」(標柱のみ)がありました。柏崎は、古くからの「ねまり

地蔵」「立地蔵」がありますが、かっての宿場町の面影は、ありません。

ねまり地蔵。

この先「西本町」交差点で本日終了とし、右折して駅前にあるホテルへと

向かいました。今日は、昨日とは違い「見どころ」の多い、9時間の行程でした。