昨夜泊まった高鍋の某ホテルは酷かった。部屋のTVは壊れ、トイレは外

なのに廊下に電灯はなく、真っ暗だ。お風呂の湯は、なかなか出ず、タオル

も浴衣もない、連絡したいが、室内電話は無い。エアコンは勿論動かない。

今まで泊まった、数々のホテルの中で「群を抜く酷い」ホテルでした。

 

朝、フロントで文句を言おうと思ったら、不在で「鍵はここへ」と

張り紙がしてありました。気を取り直して、出発です。「高鍋の街」を離れ、

山方向へと歩いて行くと、やがて県道に合流し、山の中を進みます。

 

だらだらと続く、山中の坂道を抜けると、集落内の平坦な道に変わり

ます。すると途端に、交通量が増え「歩道がない」ので怖いです。

真っ直ぐな道が通っており、昔の街道筋は「消滅している」ようです。

写真は、自動車がいない時に撮っていますが、実際は頻繁に通ります。

 
県道を暫く進むと、左へと下って行く旧道があるので、この

旧道に入って行くと、空から「金属音」が聞こえて来ました。

 

旧道を下ると、集落があり、右手にある幼稚園から、丘陵地を

今度は登って行くと「航空自衛隊新田原基地」(新富町)に出ます。

基地は広いです。爆音とともに、滑走して空に舞い上がる

「戦闘機」を見ていると、時間を忘れ、見入ってしまいました。

 

更に、旧道を進み、集落を抜け県道44号線に合流します。

この辺の、道路は綺麗に整備されており、かっての旧街道

は、もう消滅しているように思いました。

 

「一之瀬川」を、長い橋で渡ります。ここにも歩道があり

ませんが、元々、私のような「歩く人がいない」のでしょう。

 

橋を渡ると「佐土原の街」(宮崎市)に入ります。宮崎県内を随分

歩いて来たつもりでしたが「やっと宮崎市に入った」のかと吃驚

でした。佐土原は、島津分家の「佐土原・島津家」が立藩し、居城

を構えた所で、薩摩の支藩ではなく「独立した藩」扱いでした。

「佐土原城跡」は前方の左方向にありますが、先を急ぐので寄り

ませんでした。道路沿いの大きな標柱に「ひむか神話街道」と書いて

ありましたが、神話の里「高千穂」へと、続く道でもあるようです。

 

佐土原の街を抜けると、丘陵地帯へと入ります。今日は、丘陵地の

登り降りが多いです。坂道を登って行くと「西都市」に入ります。


長い急坂の山道を越え、ひたすら歩くと「都於郡(とのこおり)小学校」

がありました。裏手一帯に「伊東氏」が築城した「都於郡城(跡)」があり

ます。鎌倉御家人だった伊東氏は、日向に下向し、実力で「日向南部を

支配」しましたが、戦国期に島津に攻められ敗走しています。伊東氏は、

その後も耐え抜き「飫肥藩・伊東家」として、明治まで存続しています。

右手に「ちらっと」見える白い建物が「都於郡小」です。城跡は、その後方一帯

にありますが、以前訪問しており、先を急ぐので、今日はそのまま失礼しました。

 

引き続き、幾つもの集落を抜け、山道・田んぼ道を進んで行きます。道は

整備され、広いのですが、興味を引く所もなく、ひたすら歩き続けます。

 

道路脇に、大きな埴輪のモニュメントと、切支丹大名だった「伊東氏」等

がローマに派遣した遣欧使節団の一人「伊東マンショ」の看板がありました。

西都市は、古墳の多い所で「邪馬台国はこの辺だ」とする学説もあります。

 

道は、国富町に入りますが、相変わらず幾つもの集落を抜け、整備

された県道や、山道・田んぼ道を、どんどん進んで行きます。この辺

は、開拓地でもあるようで、かっての街道筋は、消滅していそうです。

 

国富町の中心「本庄地区」は、5世紀前後に築造された古墳が多く、

そのうち前方後円墳17基、円墳37基が「本庄古墳群」として史跡指定

されています。住居等建物と古墳が近く「古墳とともに暮らすまち」と

してPRしていますが、街の発展とともに、多くの古墳が消滅しています。

右方向に見えるのが、古墳です。生活の場に古墳があります。

 

丘陵地にある「本庄の街」を抜け、森林の中にある旧街道?を

下り、田園地帯を過ぎると、やがて「本庄川」となります。

この川が、薩摩藩との境界でした。川向うの高岡(宮崎市)は、薩摩領です。

 

本庄川を渡り、県道を進みます。街道は、薩摩藩領に入ると、公式名が

「高岡筋」となり「参考資料も多く」なります。「境野峠」を越えますが、

整備され「峠越えの実感」はありません。更に歩くと「高岡の街」です。

境野峠

 

もう少し先に進みたいのですが、高岡に「宿泊施設がない」

為、ホテルのある「宮崎駅」行のバスが出る「高岡バス停」

で終了しました。本日も歩くだけの、約6時間の旅でした。

今日のコースは「旧街道の筋道」の殆どが消滅しており、資料が

乏しく高岡へ無事につけるか、不安で一杯でしたが、自分で調べた

手書き地図を基に「今歩ける旧道」を、可能な限り歩けたと思います。