昨夜は「行橋駅」前のビジネスホテルで宿をとり、夜は駅周辺を徘徊

しましたが、興味を引く店はなく早々にホテルに戻り、一人酒盛りでした。

 

昨日の終了地点からも出発です。案内標識や説明板類がない為、自作の

地図と、現地を確認しながら歩きますので、ロス時間が多くなりがちです。

 

暫く歩くと、飛行機の爆音が聞こえ、ほどなく航空自衛隊「築城基地」

となりました。街道筋は基地内に消滅していますので、基地沿いの迂回路で、

通過して行きます。高い塀に囲まれて、基地の様子は見えなかったです。

基地には、いろんな意見がありますが、音は「うるさい」です。

 

「城井川」「岩丸川」を渡ると「椎田宿」(築上町)となります。

椎田宿は「椎田湊」を要し、年貢米の運搬や、米や酒・特産物等

の交易等も盛んで、街道随一の宿場として小倉藩の「築城郡役所」

や「御茶屋」も置かれ、大いに賑わった宿場でした。

かっては、旅籠や海運業者が並んでいましたが、今は何もありません。町中に

「資料館」があり「築城郡筋奉行・延塚敷充」の胸像が置かれていました。

小倉藩士・延塚敷充は、天保の飢饉での農民の窮状を鑑み、藩が農民に

貸し付けている「種もみ代を上司の許可なく独断で免除」し、その責任を

取って自刃した人です。役人は、時代劇では「悪代官」や「収賄奉行」が

定番ですが、実際は優秀な人が選ばれ「気骨ある方」も多かったのです。

 

左手に海の広がる田園地帯を歩いて行くと、この辺が海だった名残の

「海神社」(豊前市)があり、その先のお堂の横に「賽三柱碑」があり

ました。「道祖神」と同じ役割だそうですが「神話の世界に謂れ」を

持つ、全国に「殆ど実在しない」珍しい碑なのだそうです。

 

更に進むと、民家の横に郡境碑が立っていました。「従是東上毛郡」

「従是西築城郡」と刻まれています。両郡は、合併し今は「築上郡」です。

すぐ近くの、道の駅「おこしかけ」で小休止しました。「神功皇后」が巡幸の

途中、この地で「腰をかけられた」との伝承に因む名前だそうです。京都

(みやこ)、「賽三柱碑」「おこしかけ」神話の世界が、残る不思議な所です。

 

街道は、勅使が「宇佐八幡宮」へと進む「勅使街道」(上往還道)と分岐し

下往還道となって「八屋地区」へと入って来ます。八屋は「上毛郡の産品の

積出港」として、幕末に開港した「宇島港」をもつ、新しい宿場町でした。

この街道筋では、珍しく宿場町の雰囲気を残す所でした。街角に「道標」

が修復されて、置かれていましたが、横にある「説明板が難解」でした。

 

八屋の「豪商・萬屋」が、幕末に建立した「教円寺」がありました。この寺

は13mの二層三階建ての鐘楼が有名で「見張り台」の役割もあったようです。

 

「御界(みさかい)川」(吉富町)に来ました。この小川が、中津藩と

小倉藩の境界でした。すぐ近くに大きな「佐井川」にがあるのに、ここが

境界になってるのは、不思議ですが、何か大人の事情があったのでしょう

←小倉藩         中津藩→

 

すぐ先の民家に「従是西小倉領」と刻まれた石標が立っていました。

中津藩の石標は「八坂神社」に保存されているようです。

 

「佐井川」を渡り、下往還道と書かれた案内道標に従い進むと、すぐに大河

「山国川」となります。この川が、現在の県境(福岡県→大分県)です。

山国川には「小犬丸渡し」があり、渡し賃は一人三文(80円位)でした。

尤もこの渡船は直接、中津城下の「小倉口」へと渡したので、下級藩士や

一般人は利用できず、少し上流の「広津の渡し」(広津口)を利用したようです。

 

今は「山国橋」を渡って、中津城下へと入って行きます。「小倉口門跡」

を通り、石垣の残る「中津城西門跡」を抜けると、中津城内となります。

「小倉口門跡」

 

中津城は、黒田孝高(官兵衛)が築城し、細川忠興が完成させた城です。

その後、江戸中期からは「奥平氏」が入府し、明治まで居城としています。

当初から「天守閣」は無く、今のお堀に映える天守閣は、昭和39年に

観光用に建設された「模擬天守」で、当時のものは、堀と石垣等です。

城内に資料館が出来ていましたが、特に目を引くものは、無かったです。

 

中津の城下町は、主な「掘は埋め立て」られ、遺構類も殆ど残ってなく

城下町の雰囲気は、もうありません。手製地図に従い、右左折しながら

「中津城・黒御門跡」から、日田・大分方面への出口「島田口門跡」

付近まで歩いて、本日終了としました。約9時間の行程でした。

島田口跡

 

この後、足を伸ばして「福沢諭吉」の旧宅に行ってみました。5人兄弟の

末っ子として、大阪の藩邸で産まれた福沢諭吉(中津藩士)は、父の死により

1才で帰郷。以後19才までと、晩年は中津で過ごしています。16才で購入し

実際に住んだ家が「福沢記念館」として、公開されています。

ここは、見ごたえのある記念館でした。一見の価値はあると思います。