昨夜は、水俣の大手ビジネスホテルに泊まりました。大手ビジネス

ホテルは、全国どこも同じ様なサービスで、充足感はありませんが、

逆に「どこで泊まっても一緒」と、言う安心感があり私は好きです。

 

昨日終了した地点のバス停まで、戻り、出発しました。すぐに国道から

「津奈木川」沿いの、旧道へと入り、前方の「重磐眼鏡橋」を渡ります。

右は、温浴施設

この辺には、名勝「重磐岩」や美術館・温浴施設等があり、

「津奈木町」の観光・娯楽施設が集中する所のようでした。

 

国道を横断し、ガソリンスタンドの所から「木製道標」に従い「旧街道」

に入ります。細い坂道を「路面標示」等に従って進むと「歌坂」です。

 

歌坂を登ります。歌坂は「島津討伐」に来た秀吉に、地侍が「草や木も

なびき従う・・・」と、秀吉「よいしょ」の歌を披露した事から、この名

がついたそうですが、歌なんか「歌う余裕の全くない」厳しい坂道です。

左は崖。

 

欠落の激しい「線刻・大日如来」に参拝すると、下りです。

急坂を慎重に、ゆっくり降りて行き「国道3号線」に合流します。

 

国道を歩いて行くと、道端に「二十二里木跡」の標柱がありました。

時々前後して「←薩摩街道」の道標がありますが、案内された道は

「通行不能」でした。国道を進むと、左手に「新水俣駅」が現れます

国道3号線です。この右手前に「二十二里木跡」の標柱がありました。

 

「新水俣駅」の所で、国道から、右へと旧道に入り、暫く歩くと、

「土の瀬戸」と呼ばれる「旧街道」の「切通し道」が残っています。

短い距離ですが、往事の街道筋を、気分良く歩ける所でした。

 

「土の瀬戸」を下り、中学校の角を曲がると「陳町宿」(水俣市)です。肥薩国境

の要衝の地として、鎌倉期からあった「水俣城」の麓に、開けた「宿場町」です。

 

宿場に入るとすぐに「陳内阿蘇神社」がありました。江戸期に

「阿蘇神社」から、陳町宿の鎮守として、分祀されたようです。

 

宿場内の桝形道を進むと、右に「水俣城跡公園」があります。公園内

には「陳内官軍墓地」や、道沿いに「二十三里木跡」の標柱もありました。

見にくいですが、右手樹木の下に「二十三里木跡」の標柱があります。

 

薩摩街道は、この後左折して「水俣川」の「渡し場」へと

続いていましたが、その道が住宅地になり消滅しています。

今は「国道3号線」まで一旦出て、堤防上を後戻りします。

水俣川です。「水俣の市街地」は、対岸の右方向に広がっています。

 

今は「渡し場」はないので「鶴田橋」で「水俣川」を渡り、続いて「湯出川」

を渡って、水俣の「市街地は通らず」に、背後にある山へと、進みます。

「陣の坂」です。平行する広い県道に、出入りする形で、山を越えて

行きます。整備されていますが、蜘蛛の巣が、張って大変でした。

 

峠道は「高徳之碑」の先で県道に合流し、下りとなります。この辺は「陳原」

と呼ばれる、江戸期の開墾地で「熊本藩が奨励」した「はぜの木」が10万本

も植わっていたそうです。暫く歩くと「二十四里木跡」の標柱があります。

 

今は、ミカン畑が多いですが、それでも1.5万本の「はぜの木」

が残っているそうで、全国の約30%近くが、水俣産らしいです。

街道の左右に、時々「はぜの木」があります。

 

更に県道を下ります。「←薩摩街道」があったので、何気なく入ると

一面の藪で、もう通行不能でした。この後も、時々「←薩摩街道」があり

ましたが、どうも通行不能の思えたので、無理せず、そのまま「熊本藩」

の肥薩国境を守る「袋御番所」があった「袋地区」へと、入って行きました。

肥薩国境を守る「袋番所」も今は、ミラーの下にある石碑のみです。

 

「国道3号線」に合流して、更に進むと「マッチ箱」のような

「肥薩オレンジ鉄道」「袋駅」がありました。まだ、14時前で

早いのですが、今日はここで終了とし、連泊する「水俣の

ビジネスホテル」へと向かいました。約5時間の楽な行程でした。