昨夜は「遍路最後の夜」なので、豪華な食事をと思い、高松の繁華街に出かけ

ましたが、迷って迷って「吉野家の牛丼」でした。昭和の貧乏育ちで

「贅沢するぞ」と思っても、どうも「贅沢できない」別の自分がいます。

 

朝一番の電車で長尾駅に到着し「87長尾寺」を参拝しました。行基が

本尊「聖観音」を刻み、創建したとされ、その後弘法大師が伽藍を整備した

伝わります。兵火等により、衰退していましたが、江戸期に高松藩の援助

により再興され、その際に天台宗に改宗しています。

 

最終日です。長尾寺を出て、15.1㎞先の「88大窪寺」へと出発です。

相変わらず「案内標識(シール)」のない、地図が頼りの旧道を進みます。

右手に「石の釈迦像」を安置する「釈迦堂」があり、立ち寄りました。

「釈迦堂」の横に、江戸期の大きな「宝篋印塔」や、道標、名号碑等

があり、行政?の「説明板」が、設置されていました。この「説明板」

がこの後も随所にあり、判りやすくて歩く私の楽しみとなりました。

 

少し先、旧道から県道に合流する所に、4mの「高地蔵」がありました。

幕末の建立で、三界万霊と刻まれていました。迷える衆生の

救済とともに、旅人の目印になっていたのかも知れません。

 

県道の坂道を歩いて行くと「前山ダム」の所から「女体山」を越える

別の「旧遍路道」もありますが、道が悪いようで、私はそのまま進み

「道の駅・ながお」で県道と別れる「(東)花折峠」コースを選びました。

花折峠は、拡幅・舗装された道ですが、カーブの続く、厳しい

坂道の連続で苦労しました。途中数台のダンプカーに出会い

ましたが、すべて停車し、私を先に通してくれたのには感謝です。

 

厳しい峠道で、やっとの思いで、峠に到着しました。左、祠の中に

「70丁石地蔵」があり、大窪寺まで、約7㎞と教えてくれています。

江戸中期に、大窪寺からここまで70体の丁石地蔵が置かれたようです。

 

「相草東集落」へと降りてきました。下に見える農道に合流し、

左へと進んだ先で、県道に合流(額峠 370m)します。

県道との合流点にある「65丁石地蔵」です。破損し痛々しいお姿です。

せめてブロック塀等で「囲えないか」と思ってしまいます・・。

 

県道から、左へと「曽江谷川」を渡り「額集落」へと入って行くと、

江戸期の山村住宅「細川家住宅」(重文)がありました。

江戸期の山村の住宅として、数棟の建物がありました。内部も含め

質素な造りですが、高台にあり、恐らく豪農の家だったのでしょう。

 

旧道から県道に出ると、小さな地蔵堂の横に「東谷庚申塔」があり

幕末の「青面金剛」が刻まれていました。青面金剛は、庚申信仰の

本尊ですが、四国遍路道では、余り見なかったように思います。

他に石仏などもありましたので、近隣にあったものを集めたようです。

 

国道377号線で「ひと山」越えますが、途中に所々

残っている旧道を歩くと、丁石地蔵が現存しています。

旧道に、現存する「30丁石地蔵」です。左に施主として

高松の「二人の尼僧名」が刻まれていました。

 

国道と別れ、旧道を進みます。右手の川沿いに旧遍路道が

あります。この旧遍路道にも、丁石地蔵が残っており、私は

歩きたかったのですが、寸断されており、通行不能でした。

 

ついに「88大窪寺」に到着です。行基が創建し、弘法大師が、谷間の

「窪地」に伽藍を建て、本尊「薬師如来」を刻んで、堂宇を整備したと

されます。その後衰退しましたが、近年に再興され、建物等は新しいです。

「①霊山寺」から43日間、歩いて歩いて、やっと結願です。最後に

納経した時、お寺の方に「ご苦労さん」と言って頂けるかと思い気や

事務的に処理され「・・・・」でした。この遍路旅で、お接待なるもの

を受ける事もなく、ひたすら「歩いて」「歩いた」旅でした。何とか

一筆書きで、遍路道を歩き切りましたが、辛かったです。 合掌。