昨夜泊まった「遍路宿(遍路用の民宿)」は若者から老人、御夫婦から

外国人と様々な人が宿泊されていました。只、皆さん「歩き遍路」

かと思いきや、多くが「マイカーでお遍路」なのには、吃驚でした。

 

 

朝7時、昨日の終了地点から出発です。今日も「旧・撫養街道」で

「⑥安楽寺」を目指して進みますが「松島神社」の所で、この街道

と別れ「案内板」に従って舗装道路を進むと、安楽寺に到着です。

安楽寺も、弘法大師が本尊「薬師如来」を彫り、開山したと伝わりますが、

土佐の長宗我部氏による侵攻で焼失し、江戸期にこの地に移転・再建して

います。鐘楼門は、龍宮形で左右に仁王堂がある独特の形です。境内に湧く

温泉を利用した宿坊があり、歩き遍路1日目の宿泊は、ここが多いようです。

 

次の「⑦十楽寺」までは1.2㎞と短く、すぐに到着します。この寺も、

弘法大師が彫った「阿弥陀如来」を本尊として開山と伝わりますが、

他の寺同様、長宗我部氏の兵火で焼失し、江戸期に再建されています。

大きな宿坊があり、ここも一日目の宿泊地とされる方が多そうです。

昨夜遍路宿でご一緒した、ご夫婦を見かけましたが、遍路服に身を

包み、巡拝の作法通りに参拝されて、マイカーで次へと向かわれました。

 

1人寂しく、4.2㎞先の「⑧熊谷寺」へと、特段の高低差もない舗装道路

を歩いて行きます。途中に元総理大臣「三木武夫氏」の生家があるのです

が、判らなかったです。巨大な仁王門が見えて来ると、熊谷寺に到着です。

仁王門(江戸期 高さ12.3m)は四国霊場の中で最大で、参道や

境内に、多くの桜が植わり、桜の名所としても有名な寺です。

熊谷寺の多宝塔(江戸期)です。この寺も弘法大師が彫ったとする「千手観音」

を本尊(焼失し、今は昭和の作)としています。熊野権現を祀っていた跡地や

謂れがあり、四国霊場と「熊野詣」との関係を、実証する所でもあります。

 

次の「⑨法輪寺」までは2.8㎞、県道から田んぼ道を進むと到着です。

ここも、弘法大師が彫った「釈迦涅槃像」を本尊としますが、長宗我部

氏の兵火で消失、江戸期に現在地に移転し、再建されています。右が法輪寺

田んぼの中にある寺です。足が不自由だった方がここに参拝して、

完治したとの伝承があり、本堂に多くの草鞋が奉納されていました。

 

法輪寺を出ると、すぐに「小豆洗大師」があります。弘法大師が、寒に

耐えかね「小豆粥」を炊こうとしたが、水がないので、自らの杖で地面を

掘ると、清水が沸いたのでその水で粥を炊いて、体を温めた伝承地です。

小豆洗大師(お堂)と、その前に池(清水)があります。太子伝承では

この辺は「楠の森」でしたが、今は長閑な住宅地で、清水も濁ってました。

 

単調な舗装道路を歩いて、3.8㎞先の「⓾切幡寺」へと向い、

案内表示に従い、県道を右折、狭い坂道を登って行きます。

民家の間を抜けると、山道となり「仁王門」が現れます。仁王門の所に

駐車場がありますので、狭い道を自動車が通り抜け。危ないです。

 

いよいよ本堂(標高155m)への階段です。333段あり老骨には

堪えます。切幡寺の寺名は、地元の娘さんが弘法大師の

僧衣にと「織っていたって」差し出した故事に因みます。

右が本堂(本尊、千手観音)、左上に明治の廃仏毀釈で、大阪「住吉大社」にあった

神宮寺(廃寺)から、移設された「豊臣秀頼」寄進の「方形大塔」(重文)があります。

 

切幡寺を下り、9.3㎞先の「⑪藤井寺」に向かいます。途中見かけた

食堂で昼食を摂りましたが、最近は食堂もコンビニに押され、姿を

見なくなりました。遍路道は堤防を下り「善入寺島」へと入ります。

「善入寺島」は「吉野川」ある日本最大(500ha)の中州です。

昔は三千人の住民が居ましたが、洪水被害が多く、大正時代

に立ち退き命令が出て、今は「一面畑」の無人島になっています。

沈下橋の「川島橋」で、吉野川を渡り、対岸(吉野川市)へと進みます。

 

案内表示に従い、県道等をどんどん歩いて、最後に坂道を登ると

僅かに昔の「遍路道」が残り、そこを下ると「⑪藤井寺」に到着です。

正面の民家の奥に藤井寺の山門が見えます。弘法大師が本尊「薬師如来」

(重文  学術的には、平安末期の釈迦如来)を彫り、開山したと伝わり、その後

長宗我部氏の兵火で焼失、江戸期に「臨済宗」の寺として再建されています。

太子堂

境内で、遍路服で正装された男性にお会いしました。マイカーでの

遍路旅だそうで、今日が初日だと仰っていました。マイカー遍路さんは、

初日に、ここまで来られる方が多いようです。二日目の私も、本日は

ここで終了し、近くの遍路宿へと向かいました。約8時間の行程でした。