11月中旬、一週間ぶりに「長野駅」に戻って来ました。「北国脇往還」

旅の再開です。前回の終了地点、「善光寺」の門前から出発です。

 

善光寺の門前町は、宿場町でもありました。右手奥に本陣だった

「藤屋ホテル」があります。街道は「善光寺交差点」を右折して、

進みますが、その前に善光寺に立ち寄り、旅の安全を祈願しました。

お昼前でしたが、善光寺さんは意外と、参拝者は少なかったです。

 
「善光寺交差点」に戻り、街道を進みます。「西宮神社」の角を左折

し、すぐに右・左折して「善光寺宿」を後にします。途中に「時丸寺」

があり「六地蔵の一体」が赤ちゃんを抱えていました。この先の寺にも、

赤ちゃんを抱えた六地蔵があり、この地域独特の風習かもしれません。


左から4体目の地蔵が、赤ちゃんを抱いています。

 

境内神社が100社もある「吉田大御神宮」に参拝し、更に進むと、

大きな楼門のある「善敬寺」となります。ここは、交通の要衝で、

寺の傍らに、江戸期「松代藩・口留番所」(ミニ関所)がありました。

初冬で寒いですが、保育園児が境内で、元気に遊んでいました。

街道は、この寺の角を左折して、北上していきます。

 

「他力橋」を渡ると「新町宿」です。善光寺に近く、飯山・草津方面に

分岐する要衝の地でしたので、近隣の三ケ村を集めて、宿場としたようです。

右の、新築の家が「旧本陣・吉沢家」です。
 
追分です。角に道標(1865年)があり、右折すると飯山・草津方面となります。
 
「原の坂」を登って「長野盆地」を抜けて行きます。坂の途中、左
に「十王堂」があり、堂内に閻魔大王と、明治の廃仏希釈で破壊から
免れた(?)、石仏が集められ、堂の横には「庚申塔」がありました。
原の坂と十王堂
堂の横にある、入母屋造りの珍しい「庚申塔」(1660年)です。
 

 

「幸神」(農業神?)を祀る「粟野神社」や古刹「国胎寺」に立ち寄り、

北上していきます。国胎寺の六地蔵は、赤ん坊を抱いていませんでした。

「田中地区」に3基の庚申塔と一緒に「舟地蔵」(1719年)がありました。

船地蔵は、石船に乗られたお地蔵様で、珍しいです。

「雨乞い」に使ったとされ、国胎寺にもありました。


すぐ先に「明治天皇田子御小休所」碑が立っている旧家があります。

表門は、飯山城の裏門で、飯田から千曲川を舟で運ん来たようです。

 

大きな家が並ぶ「吉地区」を通過しますが、道筋に「筆塚」があり、

「馬頭観音」が集められていました。長い「吉村坂」の登りを、どん

どん進んで行くと、5世紀前半築造の「庚申塚古墳」(飯綱町)があります。

前方にあるのが、庚申塚古墳で、全長52mの前方後円墳です。近隣

に古墳が多く、この古墳が、長野盆地(善光寺平)を一望できる場所に

ある事から、この辺一帯の支配者の墓と考えられています。

 

県道に合流すると、15歳の「小林一茶」が江戸に出る時、送って来た

父親と別れた?「三本松」があります。馬頭観音」(1798年)等と共に

一茶の句碑 「父ありて 明ぼの見たし 青田原」 がありました。

左の木のある所が「三本松」です。昔、松が三本あったそうです。県道工事

で、道が拡幅・整備されていますが、昔は、峠道の頂上だったのでしょう。

 

県道と別れ、旧道に入る所に「四ツ屋一里塚」があります。この街道で

一里塚が両塚、完全に残っているのは野尻と稲積と、ここの三か所です。
 

西塚です。東塚は、民家の敷地内にあります。

 

「前坂」を下って「牟礼宿」へと進みます。リンゴ畑に石仏(1847年)が

あり、道沿いにも「青面観音」や、「二十三夜塔」が立っていました。


真ん中が「青面(しょうめん)観音」です。「庚申信仰」の本尊ですが、

この辺は、二十三夜塔と庚申信仰がセットなのかも知れません。

 

 県道に再び合流し、鉄道のガードを潜ると、三差路となります。

左折すると「牟礼宿」ですが、本日はここで終了とし、右折して

牟礼駅へと向かいました。約5時間の旅でした。