但馬(兵庫県北部)の「妙高山」の中腹(標高800m)に鎮座する「名草神社」

(養父市)には、「重文に指定」された建物が3つもあります。明治までは

「妙見社」として「妙見信仰」の霊地でしたが、明治の神仏分離令で、護持する

「日光院」が麓に移され、残された建物類は「名草神社」として引き継がれました。

 

急坂の参道を登って行くと、杮葺きの「三重塔」(重文)が現れます。

室町期(1527年)、戦国大名「尼子経久」によって「杵築大社」(現 出雲大社)

の境内に建てられたものを、江戸初期(1665年)に、ここに移築したものです。

杵築大社は、江戸初期に「神仏分離」を図り、大規模な造営工事や境内整備を行い、

現在(出雲大社)の姿となりました。その時の「造営用材」を提供したのが「日光院」

で、そのお礼として神仏分離で不要になった「三重塔」が日光院に寄贈されました。

 

三重塔の最上階の軒下に「四猿」の彫刻があります。「見ざる・言わざる

・聞かざる」の三猿は有名ですが、ここのは「四猿」で、珍しいです。

四匹目は、諸説ある中、地元は「思わざる」説を採用しています。

四猿です。高い位置にあり私のカメラでは無理なので、養父市のHPから転写しました。

 

更に、三重塔の一層目の軒下には、塔を支える形の力士像(四隅に四体)が

彫られています。三重塔は昭和62年に修復されています。

 

幅の広い急な石段を登ると、杮葺きの拝殿(1689年建立、重文)が

あります。中央が本殿への通路になる、珍しい「割拝殿」の形式です。

 

続いて、同じ杮葺きの本殿(1754年建立 重文)があります。入母屋造りで、

「千鳥破風」とその下「唐破風」の二つの破風を持つ、堂々たる建物です。

 

本殿の「向拝」(破風の下)には、数種の獅子像と建物を支える力士像、中国の

神仙思想に基づく仙人の像が彫られ、京か大坂の名工の作のようです。

 

社務所に立ち寄りましたが、無人でした。手持ち資料では江戸初期

(1695年)の建立(寺院?)となっています。国の重文(県の重文です)に

なっていないので、後年に「改造や改築」がされているのかも知れません。

 

かっては、麓の集落から歩いて「妙見社」に参拝する参詣道があり、

妙見社の近くに旅館を兼ねた「御師」等の住む、集落がありました。

写真の左右にあった、50軒程の(妙見)集落も、昭和に入ると衰退・

消滅し、麓からの参詣道も荒れ果て、もう通行不能のようです。

 

最後に、麓の石原集落にある「日光院」に行きました。今は妙見信仰

の本尊「妙見菩薩」を守る真言宗の寺院ですが、明治の神仏分離まで

は、現在の「名草神社」の地にあり、大いに栄えた「神仏習合」の寺でした。

こじんまりとした寺院ですが、歴史を感じる寺院で、風格がありました。

妙見信仰は「北極星・北斗七星」を神格化して崇拝するするものです。

 

「名草神社」へは、石原集落から舗装された、細い自動車道(林道)があり

ます。私が行った時は、丁度「8年に渡る」拝殿・本殿の修復が終わり、創建

当時の美しいお姿を拝見できました。訪れる人は誰も、いませんでしたが・・