10年ぶりに、4回目の「西国街道」を歩こうと思いました。西国街道は古代の

「山陽道」が起源とされ、京都七口の一つで「羅城門」付近にあった「東寺口」

が起点でしたが、今では場所が不明な為、一般的には、東寺・南大門を起点として

います。私も、西宮にある「中国街道との追分」をゴールとして、出発しました。

 

東寺・南大門(重文)です。元は、1601年「豊臣秀頼」が建てた三十三間堂の

西大門(八脚門)を、焼失した東寺の門として、明治初期に移設・転用したものです。

東寺の境内では「ガラクタ市」が開催され、賑わっていました。

 

九条通りを西に進むと、すくに「羅城門跡」の石碑の立つ小公園

があります。羅生門は、平安京の中心道路「朱雀大通り」の正門で

したが、平安中期に倒壊して以後、放置され今は石碑があるのみです。

 

更に西へと進み「九条御前」の交差点から旧道へと左に入り「吉祥院通り」

を道なりに約30分歩くと「桂川」に出ます。昔は「渡し船」がありま
したが、今は「久世橋」を渡り「久世地区」へと入って行きます。

対岸には、船宿が数軒ありましたが、その中の老舗

「いずみや」も、もう営業してない、ようでした。

 

久世地区を進んで行きます。10年前は、街道筋に農地はなかった

ものの、元農家だった家が散見されました。今、更に都市化が進み

マンションが建ち、元農家だった家も、見かけませんでした。

 

街道は、向日市に入り「JR京都線」を地下道で越え「阪急線」の

「東向日駅」横の踏切を渡り、すぐに左・旧道へと入って行きます。

角には、大きな道標が新しく立てられており、前方の伊勢講の人達

が立てた「常夜燈」(江戸末期)も、以前の場所から移設されていました。

 

向日町の市街地を歩いて行くと「向日神社」があります。

奈良期創建と伝わる古社で、本殿(重文)は室町期のものです。

酷暑を避け、桜の木の茂る参道を、涼を求めて本殿まで歩きました

が長い参道や石段で汗をかき、避暑には、なりませんでした。

 

暑さに負けず、街道を少し離れて「長岡京・大極殿跡」に立ち寄り

ました。長岡京は、784年桓武天皇により、平城京から遷都された

ましたが、大洪水等もあり、10年で平安京へと遷都され短命でした。

 

街道は「一文橋」を渡り、綺麗に舗装された神足地区(長岡京市)へと

入ります。かっての商店街も、時代とともに住宅地へと変貌していました。

神足は、東寺を出発してから2里の距離にありました。この辺の

地名が一里塚でしたので、何処かに「一里塚」があったのでしょう。

 

街道をどんどん歩いて、最初の宿場町だった山崎の街(大山崎町)

へと入ります。かっては、淀川水運を利用した商業都市・自由都市

として栄えましたが、幕末の戦禍で、大半が焼失しています。

旧:山崎宿

(ブログ、2021・2月「天王山を登ってみました」を参照下さい)

 

街道は、摂津の国(大阪府・島本町)へと入ります。境界線に国境を

守る「関(せき)大明神」があり、明治4年の境界石が立っていました。

摂津・山城国境に立つ「関大明神」

境界石

 

「山崎地区」を進みます。山崎宿が大阪側と京都側に分かれる時、

大阪側を「山崎」京都側を「大山崎」と呼んで区別したそうです。

 

少し離れて「後鳥羽上皇」の離宮跡とされる「水無瀬神宮」があり

立ち寄りました。当初は「御影堂」を建てて、上皇を祀っていまし

たが、明治期に正式に仏式を排し「水無瀬神宮」となっています。

境内は、多くの風鈴が飾られていましたが、風がなく、静かな

境内でした。名水100選「離宮の水」が沸く事でも有名です。

 

更に歩くとJR「島本駅」の横に公園があります。ここが律令体制での宿

「桜井駅」(大原駅)跡とされ、太平記に記された「楠木正成・正行父子」

「桜井の別れ」場所とされます。公園内に、顕彰碑や歌碑等が多数ありました。

 

暫く歩いてJRのガードをくぐり「梶原地区」へと入ります。

右手お堂がある所に「梶原一里塚」があったようです。当時は、

榎が植えられていましたが、お堂となり遺構類は、ありません。

 

この後、ひたすら30分程度歩いて、高槻の街に入り「阪急高槻店」の

信号で本日終了としました。約10時間の行程でしたが、日中酷暑の中を

歩いたので疲れました。