日帰りで紀伊路を歩いて来ましたが、今日からの一泊二日で、紀伊路

の旅は終了です。大きな峠越えもなく、海に近い平坦な道を歩きます。

 

「湯川中学」の交差点を出発し、御坊の街中を抜け「日高川」に

架かる「野口新橋」を渡って進んで行きます。橋の欄干が「龍の頭」

になっていました。暫く歩くと「57岩内王子跡」があります。

「岩内郵便局」の先に「焼芝王子旧社地」と刻印された石碑が立って

いました。ここが「57岩内王子跡」とされますが、本来の王子社の

跡地は「日高川の氾濫」等で、熊野古道の道筋と共に不明です。

 

更に集落を進み、古道の雰囲気を残す小道を抜けると、小高い丘陵に

「58塩屋王子」の跡地とされる「塩屋王子神社」があります

「鎮守さま」として守られて来たのか、立派な神社です。ご神体像が

美しい事から「美人王子」と呼ばれ、参拝すると「美人になれる」ようです。

境内に「後鳥羽上皇」の仮寝所とされる「御所の芝跡」がありました。

「熊野詣」が盛んな平安・鎌倉期には旅館類はなく、貴族は、仮の寝所が

ありましたが、従者達は民家等での間借りか、野宿でした。

 

海沿いの道を「一里塚跡」や「清姫の草履塚」「十三人塚」等の

歴史(?)遺跡を見て進むと、少し離れた所に「仏井戸」があります。

井戸の側面に「三体の石仏」が彫られている事から、

仏井戸と呼ばれています。ここが「59上野王子」の旧社地と

されますので、昔の古道は「違った道筋」だったのでしょう。

 

現在の道筋(旧道)に戻ると、漁協(?)の側に「59上野王子跡」の石碑

がありました。江戸期に仏井戸から、ここに移転したとの事でした。

 

続いて、旧道や国道を歩いて行くと、山側に「60叶王子」社の跡地があり

ます。明治期に廃絶となり、今は石碑や鳥居、燈籠が残されていました。

叶王子は「願いが叶う」との伝承があり、右手の絵馬掛けに「願いを書い

た」絵馬が奉納されていました。私も奉納(1枚 300円)させて頂きました。

 

「けんけん船」で有名な「印南漁港」を通り、旧道の坂道を登って

行くと「61斑鳩王子」社があります。明治期に他の神社に合祀され

廃絶されましたが、昭和期に分祀を受け、社殿等が再建されています。

小さな神社ですが、10年前と比べ綺麗に整備されていました。

「個人篤志家の寄進」によるものだそうです。

 

坂道を登り降りして「五体王子」の一つ「62切目王子神社」に来ました。

「熊野詣」に来ていた「平清盛」が、ここで「都での反乱」(平治の乱)を知り

必勝祈願をして、都へと引き返し「源義朝軍」に大勝した、史実の舞台です。

古式ゆかしい風格ある神社です。神社前に以前は無かった、

新しい「トイレ」や「駐車場」が整備されていました。

 

切目川を渡って次へと進む予定が、橋が工事中で通行止めでした。

迂回して、切目駅のガードを潜り、左右に「ミカン畑」ではなく

「梅畑」の広がる「榎峠」を登って行きます。峠の中腹に「中山王子神社」

があり、ここが「63切目中山王子」の跡地とされます。

神社前に室町前期の「宝篋印塔」があり、歴史を感じる神社です。右の

小社は「足の神様」として、近隣の人達の信仰を集めているとの事でした。。

 

「榎峠」を越えますが、道幅も広くそんなに険しい峠ではありません。

「梅畑」が多いですが、放棄された「梅畑」も散見され、和歌山県北部

の「ミカン畑」同様に、厳しい現実を見て、悲しくなりました。

 

峠を下り集落へと続く古道の角に、独特の字体で「南無阿弥陀仏」と

名号が刻まれた「徳本上人名号碑」がありました。「徳本」は江戸後期の

「木食僧」で、荒修行と念仏を唱えて全国行脚し、当時の人達に熱狂的に

支持された紀州の僧です。名号碑は全国に1641基が確認されています。

集落に入ると多くの「ビニールハウス」がありました。気候の

良い所なので花や野菜類を栽培されている様ですが、ここでも

10年前と比べて「放棄された」ビニールハウスが増えていました。

 

一旦国道に出て、案内標識に従い浜辺に出ると「64岩代王子」があります。

明治期に他の神社に合祀され廃絶しましたが、後に再建されています。

置いてあった参拝記念の「スタンプ」の収納箱の蓋が飛んでしまい、

箱が雨水で満水でした。元通り綺麗にしておきましたが、もうスタンプは

使用不可能でしょう。海辺で風雨が強く管理も大変なようですが・・。

 

次の「65千里王子」へはこの海岸を歩くのが正式ルートでしたが、

今では、海岸が侵食され通行不能で迂回路を進む事になります。

迂回路となる旧道に出て「岩代駅」で本日終了としました。

約8時間の行程でした。この後、御坊駅前のホテルへと向かいました。