「なにわ」や「おおさか」は、いつ頃から、使われ始めたのか?と

孫に聞かれて「狼狽えて」しまい「大阪歴史博物館」に出かけました。

 

古代の大阪には「難波・長柄豊崎宮(645年)」「難波の宮(744年)」が

置かれましたが、その以前からヤマト王権の外交施設等がありました。

「なにわ」は「古事記」によると「潮が早い所」で「浪速」と標記して

なみはや」と呼んでいたのが、後世に訛って「なにわ」になったようです。

「難波の宮跡」(歴博から撮影)です。今「難波の宮」付近は、整備事業中で、

私が勤務していた近くのビルは解体され、高層ホテルへと変貌中でした。

 

「難波の宮」の南隣が「大阪城」です。「大」を「大」と標記替えした

のは明治の事で、江戸城は「東京城」と言わない様に「大坂城」で良いの

では?と思ったりもしますが、行政は「大阪城」と標記しているので、大阪城

なのでしょう。尤も、坂や阪の違いって、大した意味はないようです。             

大阪城の正面通路です。通路の左右には「大きな堀」があります。建物は

左から、現存する「千貫櫓」「多門櫓」「大手門」(何れも重文)です。    

 

玄関にあたる「大手門」が「他の城と比較」して小さいです。

「絶対に破られない」為に、わざと小さくしたのかも知れません。

 

大手門を潜ると、そこが大きな桝形になっており、今度は大きくて

丈夫な門の「多門櫓(重文)」が、左手に待ち構えています。

桝形に入った敵を、三方向から射撃する、鉄壁の布陣です。

 

多門櫓を潜ると右手に「石山本願寺推定地」の石碑があります。

室町期に造られた、この「石山本願寺」周辺から「大坂」が使われ

始めたようですが、どこを指すのか? 謂れは?等は判かっていません。

「石山本願寺推定地」の石碑です。後ろに見えるのは「六番櫓(重文)」。

 

内堀を渡って「大阪城の本丸」に入りました。立ちはだかる「桜門」(重文)

も小さく、逆に正面に見える、最大の石垣石「蛸石」の方が目立ちます。

 

蛸石です。大手門より、桜門より大きいです。「肥後石」の名前

ですが、備前岡山藩の池田家が瀬戸内海から、運んで来たものです。

 

蛸石を過ぎると、エレベータ内蔵の「天守閣」が見えて来ました。

昭和6年、大阪市民の「全額寄付」で、秀吉時代の初代天守閣を基に

再建された3代目です。天守閣は、4層までは徳川時代風の白漆喰壁で

最上階だけが豊臣時代風に「黒漆に金箔で虎の絵」等が描かれています。

右の囲いの中で、豊臣秀吉が築城した当時の石垣を掘り出す工事を

していました。こちらへの寄付金は苦戦しているように思いましたが?。

 

「極楽橋」を渡って城外へと出て行きました。豊臣時代の豪華な

極楽橋(一部)は、滋賀県の「竹生島」に移築され、現存(国宝)しています。

 

結局「なにわ」は「はみはや」が訛ったものの、ようですが、

「おおさか」は室町時代に石山本願寺界隈で、使われ始めて

いますが、その詳細については「歴博」で尋ねても、不明でした。