「萩往還」は「参勤交代」の道として「萩」から瀬戸内海の「三田尻(港)」までを、

長州藩が整備した官道です。今では、ルートの多くは「国道262号線」か「県道」

になっていますが「廃道」になった「峠越えの道」等が、近年山口県等により発掘

・整備されていますので「山口県観光協会」のマップに準拠して歩いてみました。

 

萩にある「唐樋札場」(跡)です。ここが、萩から赤間(下関)や益田等各地へ

向かう「道路の起点」で「萩往還」もここから出発し、城下を抜けて行きます。

 

「橋本橋」を渡ると「金谷天満宮」があります。江戸期はここに「大木戸」があり、

夜間は大木戸が閉られ、番人が城下への出入りを厳重に監視していました。

金谷天満宮は、鎌倉期創建と伝わる神社で「秋の祭礼」は有名です。

境内は広く、建物も豪華で、なかなか見ごたえのある神社でした。

 

旧道を進んで行くと、萩から「出ていく人」を、最後に見送った場所「涙松」

があり、石碑がありました。「吉田松陰」が江戸に護送される際に、作った

歌が紹介されていましたが、この後「松陰が通った」石碑が幾つか見かけまし

た。やがて「旧街道の峠道」となり、「悴(かせが)坂一里塚」がありました。

この塚が、萩から「一番目」の一里塚で、石垣を組み内部を「盛り土」

した独特な形をしています。この後の「街道筋」に数基見かけました。

 

峠道を進むと「刑場跡等」があり、本格的な「峠越えの道」となって行きます。

峠の途中に「悴坂・駕籠建場」が復元されていました。藩主等が休息用に乗ってきた

籠を置いた所で、柴垣で囲い近くに便所や御茶屋(藩主等の休息所)があったようです

 

途中に、幕末・長州藩内の内部抗争で亡くなった「殉難三士」遺跡を見な

がら峠を下り、長閑な川沿いの道を「明木市」地区へと歩いて行きます。

最初の宿場町・商業(市)地として繁栄した所です。右手、藩主御茶屋(跡)

に休憩所として「乳母茶屋」が作られていましたので、小休止しました。

 

「明木市」の外れにある、道標に従い左折し「一升谷」の坂道を進んで行きます。

途中に西郷の「西南戦争」に賛同して、反乱した旧長州藩士の遺跡がありました。

明治維新を主導した長州藩ですが、幕末には倒幕を巡る内戦や、明治期になっても

「奇兵隊の反乱」「萩の乱」等の不満を持つ旧長州藩士等の反乱が興っています。

石畳や石橋を見て長い「一升谷」を登り切りると頂上の「五文蔵峠」(346m)

に着き、今度は美しい田園風景の峠道を「釿(ちょう)切」集落へと降りて行きます

 

峠を下った「釿切集落」です。この辺に「駕籠建場」や「御茶屋」がおか

れ、少し先に萩から三里目の「中ノ峠下一里塚」(復元?)がありました。

案内標識に従い、左折して坂道や階段を登って行くと、「国道262号線」に出ます。

この国道が、かっての「中ノ峠」(405m)で開削・整地され峠道の面影はありません

 

暫く国道を進み、左へと「整備された」旧街道に入って行きます。

気持ちの良い旧街道(一部国道がある)です。案内標識が充実していて、

迷う事はなく、風景を堪能しながら、次の「千持峠」へと歩いて行きます。 

千持峠は短く、ゆっくりと「佐々並市」地区へと下って行きます。

 

「佐々並市」は、「御茶屋」(本陣)や「御客屋」(脇本陣)が置かれ、町の

「出入口」が直角で、防御も意識した宿場町・商業の町でした。石州瓦の

家並が美しい所で、国の「重伝建地区」に指定されています。萩往還を歩く

人の多くが、一泊目はここにある老舗の「林旅館」に宿をとるようです。


幕末ここで「萩藩正規軍」と、藩政奪還を目指す「高杉(晋作)や「井上(馨)」

「山県(有朋)」らの、諸隊軍との小規模戦闘があり民家の一部が焼失しています。

 

佐々並の「道の駅あさひ」で昼食を摂り、町を抜けると「佐々並市頭一里塚」

(四里目)がありました。旧道から広い畦道を登り「国道262号線」に合流します。

延々と国道を歩いて「中作バス停」に来ました。脇に「吉田松陰・江戸送り」

関連の石碑がありました。本日はここで終了とし、前泊した萩のホテル

へと「バス」で戻りました。昼食休憩込みで、約9時間の行程でした。