四日目です。早朝「三野瀬駅」前まで送って頂き、出発しました。

今日も、昼食は宿製の「おにぎり」です。

 

出発してすぐに「始神峠(147m)」「01/16」です。「はじがみ」とは、この地方

で言う椒(はじがみ=山椒魚)の事らしく「椒」が難読な為、読み易い「始神」に

変更したとの事でした。私は「始神」も「ししん」と読んでしまいましたが・・・

「江戸道」を登って行きます。最初は緩やかな道ですが、途中からクネクネした

「十二曲がり」の急坂となり、ひたすら登ると絶景の「峠頂上」に着きます。

            紀伊松島を望む峠の絶景

 

下り道は「江戸道」とは別に「明治道」もあります。私は、以前は急峻で危険な

「江戸道」を下った経験から、今回は整備された「明治道」で下って行きました。

因みに、世界遺産指定は「江戸道」で番号道標「01/16」も江戸道での計測です。

明治道

 

2時間弱で「始神峠」を越え麓の「馬瀬集落」に降りました。ここから次の

「馬越峠」まで、10K・2時間以上あります。集落内にある「善意の休憩所」

で小休止させて頂きましたが、世話好きな奥さんは、生憎ご不在でした。

馬瀬集落

「大船川」の川底を渡り、国道42号線と旧道とを出入りしながら幾つかの

集落を通って進んで行きます。「新宮まで78K」とかかれた道標がありま

した。伊勢路は、半分を切ったという事ですが、これからが本番です。

 

相賀地区の「真興寺」に「はまぐり石」がありました。円内に小さな仏像が彫られ

ており「巡礼手引観音」(現代訳)と刻まれていました。江戸期の「死亡した巡礼

」を弔うもので、街道沿いの民家にあったものを、近年ここに移設したようです。

 

水の綺麗な「銚子川」の河原で昼食を摂り、暫く歩くと「馬越峠」(325m)

「1/22」の登山口に来ます。シダ類と尾鷲ヒノキの林の続く、2.2Km

の峠道で気持ちは癒されますが、石畳の急坂の続く、厳しい道でした。

右手前方が一里塚跡

「夜泣き地蔵」や「馬越一里塚跡」を越え、大汗かいてひたすら1時間急坂を登り続

けると頂上です。頂上からは「尾鷲の街」が見え前方に「八鬼山」が屹ていました

 

下りも石畳が続きます。石畳は、雨の多い尾鷲地方で、峠道の崩落を防ぎ、夏草や

シダ類の繁茂を抑えて、峠道を確保する方策として、和歌山藩が整備したものです。

つづれ織りの急坂を下ると「行者堂」に出ます。ここには宝永大地震・津波での

溺死者を祀る「津波供養塔」や念仏講の「徳本上人名号塔」が立っていました。

 

更に坂道を下り「尾鷲の街」へと入って行きます。以前尾鷲「総廻り小屋」

(今の警察署)の説明板がありましたが、今回見落としました。

「妊婦の巡礼が出産したが、すぐ旅だった話」や「総廻り小屋が、お金に

困窮した巡礼達の臨時の宿だった」等が紹介されていたと記憶しています。

写真は土井本家

尾鷲には「総廻り小屋」以外にも、飢饉用の米の備蓄庫「郷倉」や、生活

困窮者に米・塩・味噌等を「貸しつける役所」があり、江戸期にもそれなり

に「セーフティネット」があったと言う事でしょうね。

 

「矢浜地区」に、街中では珍しく、本来の古道が残っていました。ここを

右左折して「八鬼山峠」へと向かいますが、石油タンク群に峠への登山道

を阻まれており、大きく迂回して、山腹の峠入口へと向かいます。

 

峠の入口です。途中にあった「コンビニ」で、非常食や水を買い明日

からの峠越えに備えました。今日は、ここで終了とし、民宿の方に

迎えに来て頂きました。約9時間弱の行程でしたが、疲れました。