今回(21年12月)は、藤白神社~湯浅までを歩きます。藤白坂・蕪坂(拝の峠)

・糸我峠の「3つの峠」を越える、紀伊路一番の「ハードなコース」です。

 

出発してすぐに「有馬王子の墓」があります。飛鳥期、彼は「中大兄王子

(天智天皇)」との政争に敗れ、ここで処刑されました。天皇の王子でも、邪魔に

なったら、殺された時代なのでしょう。ここからが、いよいよ「藤白坂」です。

筆捨松付近

道は整備され問題ないですが、厳しい坂道です。時々「海南の街」を眼下に見

ながら、ゆっくり登り「筆捨松」を越えると峠です。約1時間の辛い道のりでした。

 

峠には「地蔵峰寺」があります。ここに「㊳塔下(とうげ)王子」があったとされ、

境内にはトイレや休憩室が設けられていました。地蔵峰寺の本堂と本尊

「地蔵菩薩像」は室町期(?)の作とされ、国の重要文化財に指定されています。

本尊・石造地蔵

峠には「小さな集落」がありました。立派な家が多かった

ので、古くから開けた豊かな土地なのでしょう。


左右に「みかん畑」を見ながら下って行くと、約30分で「橘本の街」に着きます。

途中「放置されたみかん畑」も多く、そこを通る古道も荒れていました。

放置されるのは、田畑・山林だけでなく「みかん畑」も結構深刻に思いました。

 

橘本の街に入ると、古道から少し離れて「阿弥陀寺」があります。ここに

「㊴橘本王子」があったとされますが確証のある話では、ないようです。

 

続いて、街中に「和菓子の神様・橘本神社」があります。

神社は明治に「所坂王子社」の社地内に再建されてますので

「㊵所坂王子社」が、そのまま「橘本神社」になったようです。

橘本神社の祭神「田道間(たじま))守」は、常世の国から「橘」を持ち帰ったとされ、

これが今の「みかんの原種だ」とされます。境内に原種の橘(子孫?)がありました。

 

更に進むと「㊶一壷王子社」の跡地とされる「山路王子神社」に着きます。

境内に土俵があり、ここで行われる「赤ちゃんの泣き相撲神事」か

有名です。この辺から坂道となり、いよいよ蕪坂(拝の峠)が始まります。

 

 先に見える坂道から物凄い急坂となり、約40分の悪戦苦闘を強いられます。

道は舗装され、道幅もありますが、何せ急坂の連続で「艱難辛苦」の道のりでした。

最後の集落を抜け、細い地道を上ると頂上の峠(拝の峠)に着きます。やれやれです。

 

峠から、舗装された尾根道を10分程歩くと、「宮原の街」へと

下り道に出ます。そこに「㊷蕪坂塔下王子」跡がありました。

                 蕪坂塔下王子跡

 

「細い急坂」を右左折しながら下りますが、案内板があり、迷う事はないです。

所々「みかん畑が放置」された為か、道が荒れており、砂利に足を取られると

捻挫や転倒の危険を感じ、慎重に慎重に歩いて約40分で「㊸山口王子跡」です。

 

公園風に整備された中に「山口王子跡」があります。正面のサボテンが、王子社

にあった遺構のようです。ここから広い道を「宮原の街」へと下って行きまます

 

 

「宮原の街」を進んで行くと「有田川」の堤防上にある「天神社」に出ます。

この辺に「渡し場」があった様で、絵入りの説明板や跡地を示す標柱がありました。

有田川を「宮原橋」で渡り、対岸の「糸我地区」へと進んで行きます。

 

右手に「一里塚(跡)」がありました。和歌山城下を起点とし、この一里塚が

「5里塚」となります。少し縮小していますが、当時の姿を留める貴重な一里塚です。

 

「㊹糸我王子跡」です。ここから「糸我峠」への本格的な坂道が始まります。

途中に「糸我王子」(再建)がありましたが、元々はここにあったとされます。

熊野詣は、鎌倉期の「承久の乱」以降に衰退し、それに伴い、王子社も消滅

しています。古道にある王子社やその跡地も、殆どが近年の再建や推定地です。

 

みかん畑の中を必死に登る苦しい坂道でした。約30分で峠(頂上)に着きます。

殆どが舗装道路でしたが、、頂上付近のここだけ地道が残っていました。

 

みかん畑の中を「吉川地区」へと下って行きます。

下った所に吉川地区の氏神「逆川(さかさがわ)神社」があります。

昭和期に「㊺逆川王子社」の跡地に再建された神社で、暫く休憩させて頂きました。

 

本日最後の峠「方津戸峠」ですが、改修されており問題なく越えました。

右手に「弘法井戸」がありますが、荒れていました。以前歩いた時にあった

途中の名所・旧跡の説明板もなくなっており、維持管理の難しさを感じました。

 

峠を下って、古くから開けた「湯浅の街」に入ります。途中の道筋には

「僅かに古道」が残り、「石仏」や「一里松(跡)」等がありました。

古道は、商店街の中を進みますが、他の都市同様に苦戦していました。

                立石の道標付近

 

湯浅は「醤油の街」「紀伊国屋文左衛門生誕」の街として有名ですが、戦国時代

秀吉が紀州攻めに際し、当地にあった「満願寺」の本堂を、京都に移築し

今の京都・醍醐寺の金堂(国宝)としています。湯浅の繁栄が偲ばれる事件です。

満願寺

街外れに、今も「満願寺」(再建)はありましたが、小さな寺で「往時を偲ぶ」

事は出来ません。かっての満願寺の「法灯を継いでいる」のかは、不明でした。

 

本日は、この寺で終了で、約9時間の行程でした。「3つの峠を越える」ハードな

コースで、体力的には厳しかったです。二回に分けて歩くのが、ベターなようです。