いよいよ「雄ノ山峠」を越え「和歌山県」に入ります。「紀の川」を

渡って進みますが、紀の川の氾濫等で、道筋が失われている所も、多いです。

 

前回の終了地点「信達牧野」交差点からスタート(2021年11月)

しますか、すぐに「⑳信達一ノ瀬王子跡」があります。

坂道の途中、右側に「王子跡」と記された小公園があり「馬頭観音や石仏」を祀る

祠がありました。「伝」となっており「この辺にあった」と言う事なのでしょう。

 

「岡中鎮守社」を過ぎ、県道を進んで行くと「波太神社」の大鳥居があり

ます。この辺に「㉑長岡王子」があったとされますが、定かではありません。

鳥居の下にある「南無阿弥陀仏」と彫られた小さな石碑が「王子跡だ」

とする意見もあるようですが、私は何かの慰霊碑の様に思いました。

 

鳥居の先を左折して難所「琵琶岸懸」へと進みます。「琵琶岸懸」の崖路

は「10年前と比べ、随分荒れて」いました。もう、ここを歩く人はいない

のかも知れません。崖路を抜け、住宅地を進むと「第5児童公園」があり

かって、ここにあった「地蔵堂」があり「㉒地蔵堂王子」の跡地のようです。

かってあった「地蔵堂」の本尊は、すぐ先の「地福寺」で「子安地蔵」と

して祀られています。児童公園も荒れ、利用する子供もいないような??

 

県道を進みます。だんだんと雄ノ山峠への登道となり、しんどいです。

「三国鉄工所」手前の空き地に「㉓馬目王子跡」の小さな石碑があります。

「足の神さん」として信仰されていた様で「ご神体の丸石」は「山中神社」に

移されています。長岡、地蔵堂。馬目の3王子は、短い距離にありました。

 

大阪府最後の宿場町(紀州街道)だった「山中集落」です。ここに「地福寺」

や山中神社があります。左が紀州公が「参勤交代」で宿泊した「旧本陣」です。

「山中宿」で地元のガイドさんに先導された二組の「団体さん」に

会いました。コロナ禍で、久しぶりに団体さんの姿を見ました。

 

「雄ノ山峠」です。狭い道を、猛スピードで自動車が来ますので怖いです。

「境橋」の手前に「仇討ちの碑」があり、橋を渡ると「和歌山県」となります。

 

更に進み、右手にある旧道で、JR線を渡ると「㉔中山王子跡」があります。

和歌山の王子跡は「青色の説明板」と「跡地の石碑」がセットであり判り

易いです。歩くコースは、和歌山県の熊野古道マップに準拠して行きます。

この先にある「滝畑集落」を抜け、県道に合流・延々と歩いて、峠を

越えて行きます。頂上付近に「峠の不動明王」がありました。

 

峠の急坂を下り、左へと旧道に入ると、すぐに「㉕山口王子跡」です。

前方に見える民家の裏に「小野小町」を弔った「小野寺跡」がありました。

小野小町は、熊野詣の帰路「80歳でここで亡くなった」とする伝承があり、

小野寺跡の中に、小町の墓もありました。こうした「有名人の関連史跡」は

全国にありますが、殆どが、旅の僧等による、後世の創作とされます。

 

この先、数度の「紀の川」の氾濫等で正確な古道の道筋や王子の跡は不明の

ようです。一時間程度歩くと、集落の中に「㉖川辺王子跡」がありました。

こじんまりした王子社で、昔の王子社の姿を留めているとされます。

古道は、田んぼの中を進みますが、10年前に見た一面田んぼの風景は

もうなく、雑草の広がる耕作放棄地が散見され、寂しく思いました。

 

暫く歩くと「㉗中村王子跡」の説明板がありました。和歌山県の「青い説明板」

と「跡地を示す石碑」がないので「県公認の跡地」ではないのでしょうか。

近くの「力侍神社」鳥居横に「㉖川辺王子跡」の石碑が立ってました。

川辺王子跡も諸説あるのでしょう。「紀の川」に向かって進みます。

 

紀の川には「渡し場」がありました。今は「川辺大橋」へと迂回し

「紀の川」を渡りますが、橋の長さは約1kmもあります。

渡った先が「布施屋」で「近世の渡し場」でしたが、熊野詣が全盛

の頃は、少し上流の「吐前(はんざき)の渡し」を利用したようです。

 

川辺大橋を渡り、「案内板」に従って「逆コの字」に進んで行くと

「㉘吐前王子跡」があります。渡し場が、布施屋に移り廃れました。

布施屋へと戻って、本日6時間の旅を終了としました。駅名表示を見て初めて

「布施屋」は「ほしや」と読むのだと知りました。読み方って本当に難しい。。