10年ぶりに熊野古道・紀伊路を歩きました。「古道歩き」は道筋にある

「王子社(跡)」を尋ねながら、名所・旧跡にも立ち寄るのが一般的です。

歩くルートは、大阪府作成の「マップ」に準拠しました。

 

出発地点は、平安・鎌倉期の貴族達が、京都から(旧)淀川を下り上陸

した「渡辺の津」としたい所ですが、流域の変遷で「渡辺の津」の場所

は不明です。仕方がないので、江戸期に「八軒家浜船着き場」があった

「永田屋昆布店」前からスタート(2021年10月)とする事にしました。

永田屋昆布店付近

右は「土佐堀通り」です。江戸期は、この辺までが「旧淀川」(今の大川)の流域で、

左側に「船着き場」があり、旅籠が並んでいました。現在の旧淀川は、護岸工事等で

更に右を流れており、その河岸に「八軒家浜・船着き場」が整備されています。

「永田屋昆布店」前。この店付近が江戸期の「船着き場」でした。

 

「渡辺の津」に上陸した「貴族達」は、最初に「坐摩(いかすり)神社」境内に

あった「窪津王子」に参拝し、熊野へと出発しました。現在、坐摩神社も移転

しており、一番目の王子「①窪津王子」の跡地は不明ですが、現在の坐摩神社の

「御旅所」が、跡地と仮定されており、私も参拝し、旅の安全を祈願しました。

坐摩神社・御旅所(窪津王子?)です。ビルの谷間の判りにくい所にあlります。

 

御旅所から「御祓筋」に戻り南下して行きます。「南大江公園」内に「朝日神明社

(跡)」があり、ここが「➁坂口王子」の跡とされますが、定かではありません。

                                                             坂口王子跡?

 

少し先に「榎木大明神」とする祠がありますが、ここも「坂口王子跡?」

とする説があります。古道は、この手前を左折して進みます。

 

古道は上町台地を進みますが、途中西へと坂を下って行くと「高津

(こうづ)神社」があります。昔は、この神社から西は海だったのでしょう。

ここに「③郡戸(こうづ)王子」があったとされますが、確証はありません。

境内に「葦の船」がありましたが、何かの祭礼で使用するのでしょうか。

郡戸王子跡?の石碑

 

古道に戻り、今度は東に少し行くと、某マンションの入口に「上宮神社」の

跡とする石碑あり、ここが「④上野王子」の跡地でもあるとされています。

                                                                  上野王子跡?

更に南下すると「聖徳太子」創建の「四天王寺」にぶつかります。

四天王寺・南大門

「南大門」から入ると「熊野詣」をする旅人が熊野に向かって礼拝し旅の安全を

祈願した「熊野礼拝石」が置いてあり、私も熊野に向かって礼拝させて頂きました。

熊野礼拝石

 

「あべの筋」をどんどん南下すると「⑤安倍王子神社」があります。大阪市内の

熊野古道や王子社(跡)は、秀吉の「大坂築城」や、戦乱等で破壊され、その多く

が推定です。ここ安倍王子神社が唯一、昔のまま残っている王子社とされます。

古道の王子社は概して小さいのですが、ここは規模も大きく、風格ある神社でした。

近くに「安倍晴明神社」がありました。陰陽師と関係する土地なのかも知れません。

 

更に南下すると、「住吉大社」の近くを通ります。

折角なので立ち寄って、旅の安全をお願いしました。

住吉大社・本殿(国宝)

 

左は墨江小学校です。この敷地内に「⑥津守王子」があったとされます。

道が工事中で、写真が撮れませんでしたので「10年前のもの」を貼っておきます。

 

「大和川」を渡り、堺市に入ります。「熊野詣」が盛んな頃は、大和川は、東大阪

方面に流れていましたので、ここに川はありませんでした。江戸期に、ここに付け

替えられましたが、近辺の住民達は、度重なる大和川の氾濫で難儀したそうです。

大和川

約5時間歩き、本日の終点「浅香山駅」に着きました。大阪市内を縦断

しましたが、すれ違った多くの大阪市民の方、全員が「マスク」をされて

いました。私も、改めて「感染症対策の基本を守らねば」と思いました。