鳥羽・伏見の戦いの舞台となった伏見(奈良)街道を歩いて見ました。

伏見(奈良)街道の名称等は、幾多の変遷を受けて諸説あるようです。

 

「五条大橋」から東へ三筋目「伏見街道」の起点とされる「本町一丁目」

界隈です。古い町屋が残り、何となく旧街道の雰囲気が残っています。

この道を南下します。ほぼ直線の一本道を歩いて行くと「大仏前郵便

局」があり、左脇道に入ると「豊国神社」がありますので、立ち寄りました。

               豊国神社・唐門(重文)

   

豊臣秀吉を祀る「豊国神社」です。明治になって、秀吉が造営した

(京都)大仏を安置する為の寺「方広寺」の旧境内地に建てられた神社です。

現「五条大橋」は、その時秀吉が方広寺への参道とする為、

別の橋(今の松原橋)にあった橋を架け替えさせたものです。

 

すぐ横の狭い土地に「(現)方広寺」があり、有名な豊臣家滅亡の原因に

なった「国家安康」の銘がある巨大な梵鐘が現存していました。

方広寺・鐘楼(重文)

                                     

豊国神社の前にある「耳塚」です。朝鮮侵攻で犠牲になった朝鮮の人々の耳や鼻を

そぎ軍功として持ち帰った物を、埋めた塚です。この塚の前で韓国から旅行に来た

学生や一般の方が、引率者の説明を受け涙を流し怒っている姿を良く見る所です。

 

街道に戻り南下して行くと、紅葉の名所「東福寺」や、千本鳥居で有名な

「伏見稲荷大社」があります。どちらも、観光客は疎らでした。

東福寺

仏殿・山門(国宝)

                 伏見稲荷大社

楼門(重文)

 

「藤森神社」や「墨染寺」を横目に歩いて行くと、「伏見・桃山」に着きます。

幕末、ここが「鳥羽・伏見の戦い」の戦場となりました。最初に薩摩軍の本営

となった「御香宮」に行きました。名水(御香水)が湧水する事で有名な神社です。

旧伏見城・大手門(重文)

高台にある御香宮から、薩摩軍は大砲で低地にある幕府の「伏見奉行所」

を砲撃して壊滅させますが、高台に薩摩軍が砲台を持ち込のをじっと見て

いて、手出ししない、旧幕府軍は、私には理解できません。

 

   会津藩と新選組の本陣があった「伏見奉行所跡」。今は団地になっています。

 

戦闘のあった場所(伏見街道)。大坂から京都に向け進軍して来た旧幕府軍

(手前側)と、守備する薩摩軍等(約800名)がこの狭い街道筋で対峙しました。


旧幕府軍は、この狭い道を突破して京都に向かう事に終始し、最前線の部隊

以外の多くの幕府側の藩兵は、後方で「傍観していた」ようです。前線で奮戦し

たとされる「新選組」ですが、この場所での戦死者は、2名(他に脱走者2名)と

され「鳥羽伏見の戦い」全体での戦死者は十数名程度と記録されています。

実際の戦闘は、最前線にいた少人数での「小競り合い」だったような気もします。

薩軍が打った弾丸の痕

 

最後に有名な「二つの事件現場」となった薩摩藩の定宿「寺田屋」に行きま

した。「旧伏見湊」に面したこの旅館には、薩摩藩のエージェントだった

「坂本龍馬」も利用していました。彼は、ここで伏見奉行所に捕縛されそうになり

「取方役人」を二人射殺し逃亡しました。その為幕府方の警察組織「京都見回

り組」に、「凶悪犯人」取り締まりの「職務」として、殺害されたのでしょう。

この建物の「右手の空き地」に本来の「寺田屋」(幕末に焼失)がありました。

現「寺田屋」は明治末期の再建で、昭和30年代に自称「寺田屋伊助」

さんが、営業を始めた宿で、本来の寺田家とは「全く関係はありません」。