昨夜は、深谷市街地にある某旅館に泊まりましたが、2食付きで大浴場もあり

何より安価でした。部屋は狭いですが、私には充分な旅館で良かったです。

 

朝、近くの「明治天皇碑」を見て出発しました。明治10年の行幸で休憩された

所です。現況は空地ですが、4か所あった脇本陣の一つだったかもしれません。

 

今日(11/25)は、曇りの予報ですが「一雨ありそう」な感じです。

左手にある「深谷城跡」に行ってみましたが、格段なものはなく

街道を進み「東の常夜灯」↓の所から、深谷宿を出て行きます。

 

「国道17号線」を横断する所に、「見返り松」がありました。旅人が

深谷宿を振り返り、思い出に浸った松だそうです。すぐ先にある「国済寺」

に行きましたが、寺の入口が全くわからず、結局諦めて先に進みました。

この辺の旧家は、屋敷内に「祠」⤴を祀るお宅が多いです。

 

「鬼林いなり社」の先「小高い木」のある「(東方)一里塚跡」

や「明治天皇碑」のある「志がらき茶屋本陣跡」を見て

進むと、左手に小さな「地蔵堂」があるので、参拝しました。

この辺の祠や庚申塔等が集められたようです。

 

更に国道バイパスや国道17号線を横断してどんどん進んで行くと右に

「忍領石標」(1780年)がありました。「忍藩」が、領境16か所に建てた

1つで、昭和14年に発見され、元あったこの場所に再建されています。

 

すぐ先に「一里塚(東塚)」が現存しています。塚は玉石で囲われ

塚木は伐採され「切り株のみ」となった残念な姿でしたが・・。

 

「一里塚」のすぐ先で、国道に合流し「秩父道」との追分にあった道標

を見て、左手の旧道に入り、道なり進むと「八木橋百貨店」です。その

店内を通り抜けると「熊谷宿」となり、まずは「熊谷寺」に参拝しました。

熊谷寺

「源平合戦」の有名人「熊谷直実」が、庵を結び「往生」した地

とされます。「入山禁止」ですので、山門からご挨拶しました。

 

「熊谷寺」の門前町としても栄えた「熊谷宿」でしたが、戦災や

都市計画により、今では宿場町の面影は、全くありません。僅か

に歩道に「本陣・竹井家跡」や「札の辻跡」の石碑があるだけです。

本陣跡の石碑と説明板↑

 

氏神でもある古社「高城神社」にお参りし「銀座1」交差点を右折

して、熊谷宿を離れ「第六中仙道踏切」を渡って進んで行きます。

 

踏切を渡って、すぐに左に曲がって進むと、左に「曙公園」があり

そこに「八丁一里塚跡」の「消えかかった看板」が立っていました。

 

街道筋を進むと、三叉路となります。ここは右にある「森田住宅設備」側

の道を進み「荒川の堤防」に上がりますが、すぐに「久下の町」へと下り

ます。この辺は「江戸や対岸への舟運の起点」として大変賑わった所でした。

「久下の渡し場」・「冠水橋」の記念碑

 

舟運が廃れた明治以降は、対岸への渡し場や冠水橋が

架橋され、冠水橋は平成の時代まで利用されていたようです。

 

小雨だつた雨が、本降りになりました。堤防下にある「権八地蔵」で

「雨宿り」してから「久下の町」の一本道を、どんどん進んで行きます。

 

「久下神社」を過ぎると、再度荒川の堤防道となります。ここは

「旧中山道の道筋」により近い「堤防の脇道」を進みます。

 

堤防下に、小さな森「稲荷社」の祠が見えました。かっては

ここに一里塚があったようですが、何の痕跡もありません。

一里塚跡↑

 

昭和22年、この付近で堤防が決壊し、大被害となった事を記念する

「荒川決壊碑」があり、堤防に上がって、現在の荒川を眺めてみま

したが、今は水量も少なく「草木が茂り」対岸は、全く見えないです。

 

「決壊の碑」の少し先で、荒川堤防の道を離れ「吹上の町」へと下って

行きます。ここにも「平井権八」に因む「権八地蔵」がありました。

地蔵の前で「辻切りを働いた」権八が、地蔵に「この事は黙っていて

くれ」と言うと、地蔵が「我は言わぬが、汝こそ言うな」と言ったとの

故事に因むもので、この故事に似た伝承を持つ地蔵は、全国にあります。

 

権八地蔵から道なりに進み、高崎線を「陸橋」で越えて、更に

進み「吹上本町」交差点を右折する付近が「間の宿・吹上宿」です。

時々、古い民家や社寺が残る吹上宿ですが、明治天皇が

休憩された「立場本陣跡」は、見つけられなかったです。

 

再び雨が激しくなってきました。ついつい速足で「吹上の町」を

抜け「第四中仙道踏切」を渡り左折、線路沿いを歩いて行きます。

 

道なりに進むと右手に「前砂の一里塚跡」の説明看板↓が

あり、江戸から13里と説明されていますが、14里が正解です。

 

街道は、嵯峨源氏「源・仕」が、武蔵国司として赴任し、そのまま土着し

「箕田源氏」を称した箕田地区へと入ります。写真の場所は舘林方面との

「追分」で、当時はここが「立場」で、右側に地蔵堂等が残っています。

←忍・舘林方面              地蔵堂→

 

箕田地区を進んで行くと、左に箕田源氏の由来を記した「箕田碑」

のある「氷川八幡神社」や、箕田源氏の祖先を追善する「宝持寺」

があり、何れも箕田源氏三代目「箕田(源)・綱」が建てたとされます。

「宝持寺」は、神社の奥に隣接します。「箕田(源)・綱」は、やがて

摂津の渡辺津に移住し「渡辺綱」を名乗って行きます。(渡辺氏の祖)

 

更に進むと「箕田観音堂」があります。ここも清和源氏の祖「源・経基」

の「守り本尊・馬頭観音」を本尊として「箕田(源)・綱」が987年に創建

したと伝わります。境内には、石仏・石塔類が多く残されています。

 

街道を進んだ先にある「第三中仙道踏切」の100m位手前

の、この辺に「一里塚」があったようですが、定かではありません。

 

踏切を渡り「加美交差点」を過ぎると「鴻巣宿」です。

 

暗くなる前に、何とか鴻巣まで辿り着き、鴻神社に参拝し「鴻巣駅前」

で終了としました。時々本降りとなる雨の中、約8時間の行程でした。