江戸時代「紀州藩・徳川家」は、紀伊で37万石、伊勢南部で約18万石等、合計

「55万5千石」を領有しており、それを管理する為、領内(含支藩)に「6つの城」

がありました。今回、それら6つの城を訪ね、その「今の姿」を見てみました。

 

12月22日、まずは「紀州徳川家の本城」「和歌山城」です。「大坂城」の抑えと

して虎伏山(48.9m)に築かれた「平山城」で、1619年に入府した「徳川 頼宣」が

以前あった「豊臣秀長」や「浅野氏」の城を、大改修したものです。

城内へは「一の橋」で内堀を渡り「大手門」(1983年再建)から入城します。

 

大手門を潜り、右手に「二の丸」石垣や、その上に生える「大楠」を

見て、桝形の「中門跡」↓を抜けると、正面に「本丸」が見えてきます。

 

桝形を抜けると、右手に「伏虎像」(1959年)があり、そのまま直進する

と、立派な石垣の「表坂」で、右・左折しながら本丸へと登って行きます。

 

かなり急坂の表坂を越えると「松の丸」となり、左の眼下に空襲

での焼失を免れた、江戸期の門↓「岡口門」(重文)が見えました。

 

右に「本丸石垣」。左、石垣下に「南の丸」(現、動物園)

を見ながら「本丸」へと、更に坂道を登って行きます。

 

やっと、天守閣(1958年再建)が見えてきました。和歌山城を

本格的に築城したのは「豊臣秀長」で、以後「浅野氏」等の領主

変遷を経て、1619年に家康の十男「徳川頼宣」が入城しています。

写真↑は、本丸御殿跡から撮影したものです。

 

本丸の坂道を登って「天守閣」に来ました。天守は、「大天守と

小天守が連結」し、更に「2棟の櫓群が渡櫓」によって連ねられた

「連立式」で「姫路城」や「松山城」等と同じ構造でした。

中央の「楠木門」から入場しますが、ここからは有料です。

 

天守閣から見た正面の山が「本丸御殿跡」と、その向こう

に見えるのが内堀を隔てた「三の丸跡」に立つ官庁群です。

現在の「和歌山城域」は、江戸期の城の規模の「1/4」だそうです。

「本丸御殿」のあった正面の山が、築城当初の本丸でした。徳川頼宜

により、本丸御殿に改造されましたが、不便な為、初代と14代が

居住した以外は、新たに築かれた「二の丸御殿」に居住しています。

 

「裏坂」で「二の丸」へと下って行きます。ここも急坂です。

 

「廊下橋」(2006年復元)です。「二の丸(御殿)」からは、この↓廊下橋

を渡って「西の丸」にあった「内堀を利用した庭園」へと向いました。

 

「西の丸庭園」を出て「追い回し門」(重文)から、城外へと出て行きま

した。この「追い回し門」と「岡口門」のみが、現存する江戸期の門です。

 

「徳川家康」は、我が子「徳川頼宜」を初代・紀州藩主とするにあたり

配下の武将4名を「(付)家老」として随行させており、4名はそれぞれ

知行地と居城を持っていました。そんな一つ「貴志城」跡を訪ねました。

貴志城跡です。1619年、家老「正木(三浦)為春」(1万5千石)により

貴志川と丸田川を外堀として「上野山」に築かれました。明治初期に

全て「取り壊され」今は↑「貴志川中学校」の敷地等となっています。

 

「貴志城唯一の遺構」が「内堀」だった「前田池」です。正木(三浦)氏

は、徳川頼宣の「実母お万」の兄の縁で頼宣の「守役」として、紀州入り

した(三浦)一族で、正木姓を「相模の名門・三浦」に復しています。

「前田池」です。これが元内堀ですので、かなり立派な城(陣屋?)

が、あった気もしますが・・。

 

続いて、付家老「安藤氏」(3万8千石)の居城「田辺城」

跡です。ここは、最初から城郭はなく「会津川」河口の

左岸に、御殿や役宅、武家屋敷などが並ぶ「陣屋」でした。

「会津川」の向うに、広い「田辺城」(陣屋)がありましたが、明治に廃城

となり、その跡地には民家が立ち並び、水門以外は「何も残って」いません。

 

唯一の遺構として残る「水門(跡)」です。埋門型の水門と、それに

続く石垣が、唯一、ここに城(陣屋)があった事を留めています。

右側→に「会津川」につながる水門がありました。

 

4月8日、今度は付家老「水野氏」(3万5千石)の居城「新宮城」(1633年)

を訪問しました。明治初期に廃城となり、今は、石垣等が残るのみです。

左は、旧「二の丸」(現、正明保育園)で、かっては新宮城

の政庁がありました。中央の「小高い丘」が新宮城跡で

藩士達が登城した「大手筋」は、民有地となり通行不能です。

 

駐車場からの登城口です。近年に造られた登城口のようです。

階段の左が「鐘ノ丸」跡で、右側が「本丸」跡です。

 

「鐘ノ丸」跡です。この先に「松ノ丸」があり、本来は

「大手門」から登城し「松の丸・西門」から入城する構造でした。

「鐘ノ丸」は、最近まで民有地で、ここには「二の丸旅館」があり

利用者は、麓から「ケーブルカーで行き来」したそうで、吃驚です。

 

熊野川に接して「水ノ手曲輪」↓があり、城内外の物資運搬を

仕切っていました。写真の、左が「松の丸」で右が「出丸」です。

 

「鐘ノ丸」から「渡櫓門」を潜り「本丸」↘へと向かいました。

本丸には、天守があったようで「天守台跡」がありました。

新宮城は「続100名城」に指定された城ですが、今は「ごちゃごちゃ」

した印象です。櫓等の復興計画があるとの事なので、整備が待たれます。


最後が、付家老「水野氏」(6万石?)の居城「田丸城」です。伊勢の国司

「北畠氏」が築き(1336年?)支配した城を「織田信長」が攻め、次男

「織田信雄」を、北畠氏の養子(1575年)として、乗っ取った城です。

大手門跡

城へは、外堀↓を渡り「大手門」を潜り「更に内堀」

を渡って、城に向かう、構造になっていました。

 

水野氏が、1619年から居城とした田丸城で、当時のものとして唯一現存

する「富士見門」(江戸中期)を見て、虎口(裏口)から本丸へと向かいました。

中央が天守台で「織田信雄の時代には、三層の天守」が、建っていました。

 

天守台から見た本丸跡です。向こう側が「二の丸」でした。

左下にあった「三の丸」跡は、今「玉城中学校」になっています。

水野氏は「他の付家老と同様」に「和歌山に常駐」

しており、田丸城は一族の城代が、守っていました。

 

←「本丸」と「北の丸」(今は稲荷神社)→を、隔てる堀切の跡です。

個人的には、後世に改造され、もっと深い堀切だった?気もします。

田丸城も「続100名城」に指定された名城で、石垣や堀等当時の遺構が

良く残っていますが、やはり「ごちゃごちゃした印象」の強い城でした。

 

紀州藩はもう一つ、1588年に「蒲生氏郷」が築いた「松阪城」も所有し

管理していましたが、重要視されず、城代や城番がいるのみでした。

何回も訪問済みですので、今回は失礼して、以前の写真を貼っておきます。