昨夜は、徳山駅前の大手ビジネスホテルに泊まりました。最近のホテルは

「大?浴場」や「豪華?な朝食」があり、満足感が増す半面、宿代も値上げです。

 

岩徳線で「高水駅」に戻りますが、朝のラッシュ時なのに、学生が降りる

と乗客は数人でした。昨日の終了地点から出発しますが、すぐに「中山峠」

や「鳴水峠」を控え、古くから開けた「呼坂(よびさか)宿」となります。

呼坂宿は「中村川」を挟み、坂道の両側に開けた宿場で「本陣や脇本陣」

が設けられ、道筋には旧家の家並が続き、宿場町の雰囲気を残していました。

 

左が、かっての「本陣・河内家」です。その先「中村川」を

越えた先の右にある「西善寺」が「脇本陣」を務めました。

 

呼坂宿を出ると、急な坂道となります。古来、この「海老形の坂道」を

「エビ坂」と呼んでおり、エビが訛って「よび坂」となったと伝わります。

振り向いて撮影しています。今は「古市坂」と呼ぶようです。

 

民家の続く、急坂の古市坂を登り切ると「数軒の民家」や

「峠地蔵」があり、下り道に「昔の峠道」が少し残っていました。

峠道の下を、昼間「2時間に1本」の岩徳線の1両列車が通って行きました。

 

やがて旧街道は、坂道の「国道2号線」に合流します。この後、旧道

との「出入り繰り返し」て国道の、険しい坂道(鳴水峠)を登って行きます。

国道として改修・整備されていますが、今でも急坂です。

かっては「もっと厳しい峠道」だったでしょう。

 

峠道を、下って行くと、右手に旧街道が残されています。

この辺に「(遠見)一里塚」があったようですが、詳細は不明です。

↑国道2号線     ↑旧街道。

 

この旧街道は、前回(2012年4月)に通った時も、荒れていましたが

今回も「かなり荒れた道」でした。もう通らない方が良さそうです。

 

「国道2号線」と合流し、又、長い坂を登って行きます。頂上付近に

「垰(たお)交差点」がありました、垰は「尾根の窪地」の意味らしいです。

 

「垰交差点」を過ぎ、少し下った所に「郡境碑」(下松市)が立って

いました。郡境碑から、左にある旧道を下って行きます。

 

「緩い下り坂」を「旧道や県道」を、出入りして進み「切山交差点」の

先で「久保地区」に入ります。山口県に入ると「案内表示がまずない」

ので、地図と現地を見比べながら、慎重に進まないと「迷子」です。

 

久保は、窪が変化した地名のようです。呼坂宿から「幾つかの山」を越える

途中の平地にあり、休息場所として「小さな宿場(久保市宿)」がありました。

江戸期は、25軒程度の集落で、臨時の「本陣」もあったようです

 

久保市宿の外れに、小さな「エビス社」があり、そこから右手

の伸びる坂道を登って行きます。結構「厳しい坂道」です。

 

坂道を登った所(岡市集落)に、大きな「常夜燈」と

小さな祠があり、その付近に「一里塚」があったとされます。

右手付近に一里塚があったようです・・・。

 

道なりに進んで行くと「山裾道」となりますが、この道は「塩売垰」

とか「汐入峠」と呼ばれ、かってはこの周辺まで、海だったようです。

 

塩売垰を下り、国道2号線を横断、岩徳線の「生野屋駅」を

左折して、真っ直ぐな「生野屋の街」を進んで行きます。

生野屋の家並

 

「花岡の街」に入ると、右手に「毛利本藩」の「勘場とお茶屋」の跡が

ありました。「毛利本藩」は領地を、18の「宰判」に分け、代官を派遣

して支配しており「宰判」内の事務等をする「勘場(代官所)」と殿様等の

宿泊施設「御茶屋(本陣)」が、宰判内の中心地に設けられていました。

前回(2012年)、勘場等の跡地は「ふるさと花壇」として、多くの花

が咲き「心が和む」所でしたが、花壇は無くなっていました。残念

 

すぐ先に老舗の酒屋「金分銅屋」があり、その横から入ると「花岡八幡宮」

があります。神社境内で、地元の方に話かけられ、地元の話に夢中になり

ここににある「多宝塔(重文)」の写真を撮るのを、忘れてしまいました。

 

花岡宿を過ぎ、暫く歩くと「末武川」です。末武川沿いの

この辺りに一里塚があったようですが、詳細は不明です。

 

末武川沿いを進み「和田橋」を右折して歩いて行き、小川を渡り、

左折すると、小さな山越えの坂道です。山を越え「山縣酒店」を

直角に曲がり、更に進むと「周南市」となり、広い県道に出ます。

 

一旦県道(桜木交差点)に合流しますが、すぐ先で、又右に入り

「山越えの坂道(早乙女坂)」を、登って行きます。

 

「早乙女坂」を下り、先ほどの県道に出ますが、ここも右へと「遠石八幡宮」

がある「遠石の街」へとすぐに入って行きます。道沿いには、旧家が並び

かっては「八幡宮の門前町」「徳山支藩の外港」(海の側だった)として、大いに

「栄えた名残」を感じました。ここは、小規模の宿場もあったようです。

 

趣のある「遠石の街」の突き当りに細い坂道があります。この道

が、今に残る山陽道(念仏坂)で、一里塚もあったようです。

 

短い念仏坂を越え、県道に合流後「青山町信号交差点」を左折し、すぐに

右折して進み「孝女・阿米像」を見て更に歩くと「徳山宿」です。

アーケード街が、かって「徳山宿」ですが、戦災で焼失し、遺跡類は

何もありません。この後「徳山駅前」まで歩いて本日終了とし帰宅しました。

国道や県道、生活道路となった、昔の「大きな峠道」から「小さな坂道」

まで「数多くの峠や坂道」を越える、約6時間の旅でした。