昨夜は「防府の夜の街」を徘徊ししましたが、日の入りが遅く夜7時を

過ぎても、まだ明るかったです。結果ついつい「飲み過ぎて」としまい、

「些か酩酊気味」でホテルに戻りましたが、気分良く熟睡出来ました。

 

さて「戸田(へた)駅」に戻り出発です。明日(5/31)は、雨の予報なので今日は

「佐野峠」までは行きたいです。国道を横断し「夜市(やじ)地区」へと入って

行きますが「夜市」とは、夜に市が立った事が由来なのか?、珍しい地名です。

 

街道は、道なりに左折すると、急坂の山道(赤坂峠)となりますが

舗装された道で、問題なかったです。頂上に「貯水塔」や「グランド」

が整備され「赤迫」と書かれていました。「赤迫峠」かも?知れません。


峠を下ると「戸田(へた)地区」です。地区に入ってすぐ、左手高台に

「船山神社」があり、境内に「碇石」なるものがありました。元は

「祇園社」のようですが、説明板が劣化して、由緒等は判読不能でした。

峠の出口から見た戸田地区です。伊豆地方に戸田(へた)がありますが、

ここも「戸田」と書いて「とだ」でなく「へた」と読むようです。

 

その先の「桜田八幡宮」参道の両側に「宮島様」と「凱旋記念碑」

がありました。宮島様は「池に立つ祠」を宮島に見立てたようで、

凱旋記念碑は、戊辰戦争に参加した若者23名が無事帰還した記念です。

宮島様です。祠は恵比寿神のようでした。戊申戦争では、

「長州軍」として、地域の若者も、参加していたのでしょう。

 

戸田地区を進みますが、真っ直ぐな道です。戸田地区は国道2号線や

「JR戸田駅」と離れており、静かな反面、過疎化しているようでした。

戸田地区

 

戸田地区を抜け「国道2号線」に合流し「椿峠」へと向いますが、

街道は、少し先の「産廃施設」の所にある旧道へと入って行きます。

↑椿峠へと向かう国道    旧道↑

 

旧道を歩いて、椿峠へと向かいますが、結構「長く厳い峠道」でした。

左にある民家の前付近に「一里塚」がありましたが、詳細は不明です。

 

椿峠です。国道の4車線化工事で、左側に僅かに残っていた峠道は

削られてしまい、峠にあった「郡境碑」も「撤去」されたようです。

判りにくいですが「現行の2車線道路」と「削られた山」

との間に、新しく「2車線道路」が、造られています。

 

4車線化で「削られて消滅する前」(2012年4月)の、旧椿峠と郡境碑

です。時代の流れで、仕方がないのでしょうが、残念です。

 

峠を越ると、右手に「脇道(旧道)」があり、この旧道を下って行くと

眼下に「富海(とのみ)の街」(防府市)と「海」が見えて来ました。

←国道2号線      富海に下る旧道↑

 

旧道を下り、集落を抜け更に進んで「国道2号線」を横断し、道なりに進む

と「富海宿」です。半宿(間の宿)でしたが、峠や湊を控え、繁盛したようです。

本陣は、代々石川家が務めており、本陣門が残されています。

 

当時は、街道筋のすぐ南に岸壁があり「飛脚船」(飛船)が活躍して

いました。幕末に中山卿(天誅組首領)を匿ったり、高杉等の勤王方

を支援した「大和屋政助」の船倉(現存)へと、立ち寄ってみました。

船倉は「本陣のすぐ近く」にありました。当時は、左側は

海で、この通りには、この様な船倉が並んでいたそうです。

 

街道に戻り、JR線の踏切を渡り、道なりに富海地区を進んで行きます。石垣の

続くこの辺に「飛船問屋」が並んでいたとされ「一里塚」も、あったようです。

 

街道は、富海地区を抜け「橘坂」を登って行きますが、結構な急坂です。

 

橘坂を登って行くと「撫でる」と足が軽くなる「手懸岩」があります。

この岩付近は、古来から「周防灘を望む絶景の地」だったそうです。

岩を撫で「道中無事」をお願いしましたが、眺望は木々が繁り悪いです。

 

手懸岩を過ぎると、本格的な山道となり「茶臼山古戦場跡」や

短い「石畳道」を通り、更に進むと「浮野峠改修碑」があります。

その先に「旧山陽道」の案内板がありますが、その道は「通行不能」

で、そのまま広い道を直進します。撤去して欲しいのですが・・。

 

街道筋は、偶に「倒木や草が繁茂」している所もありますが、道は補修され

危険個所にはローブも張られて、特段の問題もなく「浮野峠」を越えました。

途中「道なりに」左へと下る舗装道路がありますが、そこも直進します。

 

峠を下って行くと「駕籠立場」がありましたが、立場跡の

説明板は、劣化で読めず、近くにあった茶店「又兵衛茶屋跡」

も整地され、標識も外されて、景観が大分変っていました。

               ←「又兵衛茶屋跡」  駕籠立場跡↑

 

坂道を下って、半宿(間の宿)だった「浮野地区」に入ります。峠を控え、

大名等の休憩所でもあった「旅籠・徳地屋(跡)」が、左手にありました。

←徳地屋跡です。この辺に「旅籠」が並んでいたようです。

 

街道は、相変わらず真っ直ぐな道で「牟礼今宿地区」を通って行きます。

「馬刃川」を渡った先に「一里塚」があったようですが、詳細は不明です。

 

この後、街道は広い県道に合流し「国衙(こくが)交差点」を右折、かって、

「周防国府」があり、公園風に整備された「国衙跡」の道を進んで行きます。

左右が「国衙跡」です。前方の「東屋」で休憩しましたが、心地よい風と

陽気で、いつの間にか1時間ほど「昼寝」をしていました。急がねば・・・。

 

「国衙跡」を過ぎてすぐ、右折して「多々良大仏」に立ち寄り、元の街道

に戻って「佐波神社」や「毛利邸」を右に見て、進むと「国分寺」です。

「周防国分寺」は、奈良期の創建以来、同じ場所に建ち、遺構もその

まま残っています。本堂(重文)や、室町期の仏像(重文)等、多くの

文化財を保有していますが、建物類は焼失し、概ね江戸期以降のものです。

 

「萬行寺」の桝形を過ぎると「萩往還」との追分です。前方から、山陽道と

と一緒に進んで来た「萩往還」は、この交差点を右折(写真では左折)します。

← 萩往還↑         防府天満宮→

 

右手「防府天満宮」に参拝しました。明治までは「満福寺」と

言う寺で、904年に建てられた「菅原道真」を祀る社を「松崎の

社」と称していましたが、戦後「防府天満宮に改称」しています。

 

街道に戻って進むと「宮市宿」です。「松崎の社」の門前町として

交通の要衝として、栄えた宿場で、本陣は兄部(こうべ)家が勤め

ましたが、近年の火事で消失し、今は本陣門のみが残っています。

無電線化され、スッキリした通りとなっています。ただ、交通量

が多く、ゆっくり宿場町を散策とは、いきませんでした。

 

すぐ先に「定念寺」(宮市観音)があり、かっては、その隣付近に

「脇本陣・中村家」その西に「脇本陣・市川家」がありました。

宮市宿で15時となり「佐野峠越え」は諦めました。本日は、この先で

終了とし、連泊するホテルへと向かいました。3つの峠を越えましので、

疲れましたが、行程的には、6時間弱(昼寝を除く)の、緩いものでした。