自称ACと気付くまで 2 | 今日も元気におきらくごくらく~ACとうつからの脱出~

今日も元気におきらくごくらく~ACとうつからの脱出~

幼い頃の辛い記憶&心の闇・うつ病と闘っています。
我が子たちに心配されない母になれるかな?

次は母の事も含めながら。





私の母は4人きょうだいの長女。


母の下には3人の弟がいる。



ずっと祖母に厳しくあたる曽祖母との確執(嫁・姑)を見ながら育った。



母自身はとても運動神経が良かったらしく、高校生の頃某スポーツで国体に出場した。




その経験から実業団から勧誘を受けて県外の企業に就職したが、数年間働いた後実家に戻った。



そして父との見合い、結婚に至った。




前の記事にも書いたように、父の実家は山村にある。


結婚前初めて父の実家を訪れた日、慣れない山道で車酔い。


車を降りて気分が良くなるまで待っていたら、父に怒鳴られたらしい。



「俺の実家に行くのがそんなに嫌なのか」と。


これは、車酔いが酷い私にも何度も投げかけられた忘れられない言葉だ。

好きで車酔いしてるんじゃない。

クネクネ山道で荒い運転。

気分が悪くなるのも当たり前だ・・・


今になって思い返せば、そこで婚約破棄すればよかった、と何度も聞かされた。

父の母(私の祖母)は、母に対して非常に厳しい人だった。


父の兄のお嫁さんは村内の人。


他の兄弟たちの配偶者も、比較的近隣の人たち。




母だけが、父の実家に馴染めなかった。




しかも、元々小さい村での小さい集落での事。


近所付き合いや伝統を重んじる気質の人々。


みんな、名前でなく屋号(やごう)で呼び合うような地域。


母が馴染めないのも無理はない。




父の実家にいる間、母は座る時間はない。




ずっとキッチンに立ち続け、早朝から晩まで何かしらの食べ物が並ぶ食卓の上に、次々と料理をしなければならなかった。


朝食前にお茶

朝食

10時のお茶

昼食

15時のお茶

夕食

夕食後のお茶・・・



父の姉妹たちは手伝いもせず座っているのに。



母は最初の妊娠で私の兄を出産する日、陣痛で苦しんでいる最中


「うるさいから静かにしろ!」


と父に怒鳴られて家を追い出され、当時隣に住んでいた方に病院に送って行ってもらったという。



3年後、一度の流産をはさんで私を妊娠。

これまた陣痛が始まった時、


「女なんか産んできたら承知しない!」


当時は出産するまで性別なんか分かりませんでしたからね。。。


とまた怒鳴られ、


私を出産したあとは嬉しさではなく、「女が産まれたから」辛くて泣いたらしい。

そして「子どもは2人と決めていた」


と聞かされた。


やはり私は望まれて生まれてきたんじゃない。


流産したからもう1人、となった訳で


兄か姉だったであろう流産した子が生まれていたら、私の命はなかったって事だ。



ちょうど今ある私の実家を建てていた頃、父の兄の会社が立ち行かなくなり、連帯保証人となっていた我が家は、莫大な借金を抱えることになった。


その件からほんの数日で、母の髪は真っ白(白髪)になった。


父の実家には何も知らせることなく、母の実家にお金を無心するような父だったので・・・

幼心に、その光景は今でも覚えている。




当時まだ母は30代。


髪を染めたが、今でいう「茶髪」になってしまった。




事情を飲み込んでくれない父の実家では、「そんな髪の嫁は恥ずかしい」と虐げた。


「お前がしっかりしないから」と、理由のすり替えまでしようとした。


そんな時に頼りになるはずの夫=私の実父は、祖父母・親戚と一緒になって、母を虐げた。




母の苦悩は父の両親が亡くなるまでずっと続いた。


どんなに遠い親戚でも、母が直接知らない人でも、祖母が村内の誰それさんが入院したと一本電話をかけると、

母が「●●家の▲▲の嫁です」と言いながらお見舞いに行く。


逆に母が体調を崩して入院・手術をした時は、父方の祖母も知っていたにもかかわらず、「親戚に言うと皆に迷惑をかけるから」と言い、父方の親戚は誰一人見舞いにも来なかった。


そして父はというと、「入院・手術したことは恥ずかしい事」と、ずっと前から加入していた生命保険の請求すらしなかった。


全くもって意味のない保険。


あんたは保険会社にお金を貢いでいるのか??と、怒りを覚えた。


私は、それらの状況をずっと目撃してきた。



母と父が揃って笑っている姿を見たことがない。


2人で歩いている姿を見たことがない。


車に乗っても会話すらない。


ただの仮面夫婦だ。



そして、自室にこもる私に聞こえてくるのは父と母のケンカの声。


毎日、毎日。


そして、母のストレスのはけ口は私に向かった。

叱られた訳ではない。

虐待も受けていない。

ただただ、毎日父と父の実家に対する愚痴を、ひたすら聞き続けた。


私が生まれる前の出来事や、幼すぎる頃の出来事。


いい事はひとつも聞かされたことがなかった。


母一人で抱えるにはあまりにも大きな出来事ばかり。


かといって幼い私が支えるには、あまりにもでかすぎる出来事。


というよりも、理解すらできないこと。



正直聞きたくなかった。


特に私の出生に関する出来事。


聞かなきゃよかった。


私は両親に望まれて生まれた子供ではないことが、はっきり分かってしまった訳だから。


小学生の頃、テレビで放映していた「ターミネーター」(←ヤバい、歳が・・・あせる


ホラー映画を見た時のような恐怖に襲われた私。


母に「怖いから一緒に寝たい」と言ってみた。


「怖くないから部屋で寝なさい」のひと言で済まされた。


この人にも頼っちゃいけないって・・・自分の部屋という殻にこもった。


いじめられた時もどうしても言い出せなかった。


母に、隠していたカミソリと大量の遺書が見つかるまでは。


そして私は、小学生の頃からずっと鍵っ子。


借金返済、ローンの返済、生活費・・・


もう、内職どころでは太刀打ちできない貧乏生活。


母も働かざるを得なかった。


手に職も資格もなかった母は、体力勝負の仕事を選ぶしかなかった。


兄は既に中学生になり、部活動で帰りが遅くなる。


誰かが帰ってくるまでいつも暗い部屋で、母の手作りのおやつをむさぼることしかできなかった私。



父はというと、母や私にはお構いなし。


罪悪感など微塵も感じさせない威圧感で私たちを苦しめ続けた。



そして……


気付いた時には、父や母の温かさ、肌のぬくもりを知らぬまま、思春期を迎えた。


思春期になると、更に父親への嫌悪感が増した。


女の子には一度くらいはあるのかな?


「お父さんのものと一緒に洗濯しないで!」って事。


それは今の歳になるまで一度も消えることのない感情だった。


それ以降、私は父には指一本触れた事はない。


また経済状態が本当に厳しかったらしく、記憶にある中で家族で遊んだ事、旅行に行ったことすらない。


家族で出かけた記憶は、殆どが父の実家と父の兄弟の家だった。


友だちから貰う「旅行のお土産」が、嬉しくって、お返しできなくて申し訳なくって、悲しくなって更に自分の殻に閉じこもった。


家の事だから、誰にも言えない。


恥ずかしい。


知られたくない。


私の心の闇がどんどん大きくなってきた。


つづく







きこきこ