今朝の朝日新聞

政治学者の御厨貴東大名誉教授との共同研究という形て

独自の記事

「宮沢元首相「目録」克明40年」という見出しが一面を飾った。


1993年は熱い夏だった!

政治改革をめぐる動きは、時の宮沢政権を窮地に追いやる動きではあったが、自民党政権を崩壊させ、非自民の政権が誕生するほどの動きだったかと言われれば、

当時、それを予測出来た人はいなかったのではないか、

と今でも思う。


結果的に自民党政権最後の総理となった宮沢喜一氏

佐藤栄作氏と並び、池田学校の秀才と言われた人物だが、

「人の良さ」と真面目さが何かと裏目に出る人物であった。


簡単に言えば、政治家としては「いい人」過ぎると

今でも思う。


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 1993531日、宮澤喜一首相が、田原総一朗からインタビューを受けたテレビ番組『総理と語る』内において、

「(今国会中に衆議院の選挙制度改革を)やります。やるんです」と公約する。しかし結果的に自民党内の意見をまとめきれずに次の国会へ先送り。これに野党が反発。通常国会閉幕直前に日本社会党・公明党・民社党が共同で内閣不信任決議案を提出。衆議院の過半数を占める自民党の反対多数で当然否決されると思われたが、党内から造反者が続出して「可決」。

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内閣不信任決議可決は1980年以来13年ぶり、日本国憲法施行後4回目であったが、55年体制の崩壊の端緒となるのだ。

不幸としか言えない展開であった。


宮澤さんは東京原宿に自宅があったが、

その自宅玄関に通じる小道に、記者団の要請で自ら姿を見せ、

結構饒舌に囲み取材に応じていた光景が今でも忘れられない。


自民党最後の総理となった宮澤さんが奇しくも15代目自民党総裁。

江戸幕府15代将軍の徳川慶喜と同じであったことから、慶喜になぞらえる論調も登場していた。


結局宮沢政権は衆議院を解散する。(世に言う「嘘つき解散」)

40回衆議院選挙を迎える。

選挙戦は前年の参議院選挙と同様に新党ブーム一色。


結果、自民党は単独過半数を維持出来ず、

社会党も55年体制以後では最少議席となった。

日本新党、新生党、新党さきがけなどがキーボウトを握ることに。


そして、小沢一郎が細川政権樹立に向け動き出す。

「非自民政権」を作ることが彼の最大の狙いであった。

同時に細川というブランドにかけた側面もあったと思う。

旧熊本藩主侯爵細川家や元首相・公爵近衛文麿の孫という

血筋の良さに

非自民政権樹立には国民的人気が有効と考えた小沢一郎の判断。


結局選挙から1ヶ月近くたった89日細川政権発足。


衆議院「初当選」の総理が誕生した!


宮澤さんの人柄を語る上で思い出すエピソードがる。

報道局政治班のプロデューサーが、

宮澤さんの自宅に電話を入れた。

当然秘書か電話に出ると思いきや、「はいはい宮澤です」と

本人が気軽に電話に出てきて、電話したプロデューサーもびっくりしたとか。


残念ながら僕自身は宮澤元首相に御目通りしたことはなかったが

会った人間は、その正直で真面目な人柄に感心したという。


朝日新聞の記事を読んで

そんなことを思い出すだした。

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