1989年1月7日未明
朝のワイドニュースのキャスターだった僕は
「昭和の終わり」を伝える役割を果たした!!
1月7日は土曜日、私がモーニングワイドを担当する日であり、
新年に入って最初の放送日であった。
いつものように朝4時前には局に到着、打ち合わせの後、
眠い目をこすりながらニュース原稿の下読みを開始。
五時過ぎだったか、社会部に「天皇の侍医高木氏が自宅を出た。」という一報が入り、ニュースセンターは突如騒然となった。
「その日」が来たのか?
体全体が緊張してくる。
前日の宮内庁発表では
病状は比較的落ち着いているとのことだったのに。
(昭和天皇は前年9月にお倒れになり病の床に)
この日の東京の朝の最低気温は4℃、 寒い朝だった。
とりあえず原稿らしい原稿も持たずに私一人スタジオへ。
1月7日午前5時12分放送開始。
手元にあるのは。「高木侍医が自宅を出た。」との短い原稿だけ。
その内、皇居各門に皇族方が続々お入りになる生中継映像が
原稿より早く飛び込んできた。
その映像の解説をしながらアドリブ放送。
現場からの簡単な情報を元に映像にコメントしていく。
自分が勉強した知識や、覚えていた皇族方の顔を頼りにコメント。
「○○の宮のようです。」間違っていないだろうな?
一抹の不安に晒されながら必死にコメント。
実はこうした事態の場合は、皇室担当の専門記者が
私の隣にきて解説することになっていたのだが、
その記者(実は、後に高知県知事となる橋本大二郎氏)がなかなか隣に来てくれない。
後から考えてみれば、橋本記者は相当早く局に到着しスタジオに入っているのだが、一人で放送を続けた時間が無限の長さに感じたのだろうか?
必死の形相で放送を続ける内、橋本記者も登場!
その後も、慌しい皇居の様子を映し出す中継映像を頼りに、
橋本記者の解説も交えながら切れ目のない放送。
竹下総理も午前6時15分には自宅を出て午前6時28分に皇居に。
どうやら事態は最終局面を迎えたらしい。
午前6時31分
「6時35分から宮内庁三階講堂で宮内庁次長が会見する。」
という情報が入って来た。
講堂での会見は「最終局面」を意味していた。
6時35分、宮内庁宮尾次長が会見で
「天皇陛下午前4時過ぎ、吹上でご危篤になられた。」という内容であった。
ここで私の役目は終わり、事前の計画通り、
斎藤季夫アナにバトンタッチ。
午前6時36分臨時ニュース「天皇陛下午前4時過ぎにご危篤」放送からは斎藤アナウンサーの担当となり、
私はNCスタジオを出て、しばらく副調整室に待機。
午前7時55分藤森長官会見
「天皇陛下午前6時33分崩御」「誠に哀痛の極み」という内容。
ついに「その日」となったのだ。
歴史の「節目」を見たいからアナウンサーになったという
私の思いか、こんな形で現実となった!
「昭和の終わり」を伝えたのだ!
あれから35年
当時37歳の僕は、今72歳!
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