年賀状がきっかけで

宇都宮時代の親友と連絡取れた!


 56年夏、北関東の宇都宮放送局へ異動。

猫の太郎、華に加えて長女櫻子も加わって宇都宮へ。


この局は当時テレビ放送をしていない「FM局」。

東京のスタジオで放送される「関東ネットワーク」という関東ローカル番組が主戦場で、週に一回放送される栃木県の話題の日に、

フィルムを東京に持ち込み、編集して放送するのが最大の仕事であった。(当時まだVTRは地方局の番組制作には一般化していない。)


 この宇都宮の地での最大の出会いは、当時「春雷」で野間文芸新人賞を受けたばかりの新進気鋭の作家「立松和平」さんとの出会い。

宇都宮局のFMローカル番組にご出演いただいていた立松さんは、

収録の日、いつもエンジン音も高らかにジープで局においでいただき、丁寧な独特の語り口でトーク番組の収録をしていただいた。

以後立松さんとはずっと交流が続き、

私の人生にも大きな影響を与えた。

「男は50になったら、腹をくくってこれまでの仕事を総括し、

本物の仕事をやらねばならない。」という立松さんの言葉!

その後50を迎えて、アナウンサーの現場を離れ、「行政職」へ転身するきっかけにもなった。


昭和56年から60年の宇都宮局時代は

僕にとっては苦しい時代だった!


次女の難病発症。

故郷京都の母の死。

アナウンサーとしても行き詰まっていた。

長いNHKアナウンサー生活で、たった一度この時は

「辞めようか?」と思ったことも。

希望の東京アナウンス室への異動も絶望的。

(この局からアナ室へ異動した人はいないと聞いていた。)


しかし「捨てる神あれば拾う神あり!」

時の局長も放送部長も全力で、僕の東京アナウンス室異動を

支援してくれた!

しかもこの時の「I技術部長」までも!

自らの職域ではないのに、東京出張の際、アナ室に出向いて

僕のアナ室への異動を

知り合いのアナ室幹部に「お願い」してくれたらしい!


後になってアナウンス室幹部から聞いた!

みんな僕の味方だった!


そして何より「仲間」が良かった!

憂さ晴らしのカラオケに

毎晩のように付き合ってくれた仲間よ。ありがたかったなあ!

その時のバーのツケ、踏み倒したままだったかなあ?


今はー

宇都宮は「人情」の街だったと思う。

長い人生の中でも特筆すべき時代だった。

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