三原山大噴火の思い出


昭和61年の出来事だった。

11月15日 伊豆大島三原山12年ぶりに噴火。

11月21日 三原山大規模な割れ目噴火し溶岩が市街地に迫り、

全島民一万人余が島外に。

その後一ヶ月にわたり島民の避難が続いた。

 15日の最初の三原山噴火は小規模で、噴火を目当てに観光客が集まったほど。

ところが21日夕刻、大音響とともに大規模な割れ目噴火。

その後も噴火は規模を拡大していき、三原山の山裾に11もの噴火口ができてマグマが噴出。溶岩が山を下り住宅街に迫った。

こうした中で、空前の全島民一万人の脱出が決断された。

島と東京を結ぶ東海汽船はすべての船を大島に向かわせ、

海上保安庁や自衛隊さらには近隣の島の漁船も駆けつけ、

夜七時半には島の沖合いに30隻以上が集結した。

こうして翌22日朝4時過ぎには島民全員の奇跡的な脱出完了した。もちろん取材のため大島に滞在していた

NHKの取材班も引き上げた。


 私は21日の割れ目噴火を受け、カメラマンとともに竹芝から

東海汽船で大島へ向かったものの、途中全島民避難が始まり、

結局、島に近づけずそのまま東京へ引き上げた。

船から見ていると、三原山から流れ下る溶岩の行く筋もの光が、

夜間鮮明に浮かび上がるのを本当に美しいと思った。


そしてその後私は、すっかり島民のいなくなった大島へ、

小さなヘリコプターでNHKの先遣隊として向かうことになった。

取材クルー一同、靴は鉄板の入った安全靴、頭はヘルメット。文字通り決死の覚悟である。

島に着いて見れば、置き去りにされた犬が主を失って

徒党を組んで走り回り、自動販売機の明かりだけが

闇の中に煌々としていて、

住民のいない島は、見たこともない不気味な世界になっていた。

当然ながら店がないからお金は役に立たない。

ただ自動販売機があるため、応援の後続部隊に

小銭を大量に持ってくるよう頼んだ覚えがある。

こうして数週間、人のいない島で火山の取材を続けたが、

いつ大規模な割れ目噴火が起きて吹きて

飛ばされるかも知れないという危険と隣あわせの取材であった。

夜は警察の指導で島内に残ることは許されず、

港に接岸したNHKチャーターのクルーザーで寝泊り。

各社ともこの方式で取材を続けた。

様々な取材を経験したが、このような取材は後にも先にもこれだけ。


この時ばかりは生命の危険を切実に感じながらの取材であった。


溶岩の先端というものもこのとき初めて見た。

近付くと熱さが物凄く、どこが溶岩の先端かがすぐにわかった。

海外ではこの溶岩に水をかけて進行を阻止した例もあり、

このとき東京消防庁はその資料を取り寄せて、

水をかけて固めてしまうことを真剣に検討したが、

火山学者からの水蒸気爆発の危険を指摘され断念している。


三原山の取材では、私は一ヶ月後全島民が島へ帰る日にも島にわたり島の人たちの故郷帰還のリポートを担当した。


 実は初任地室蘭局(1975年~78年)では

有珠山の噴火(昭和52年)という貴重な経験をしていたが、

あの時は水蒸気爆発での降灰の嵐。灰と戦いながらの取材であった。

しかし三原山は、ハワイのキラウエアのように火の塊の溶岩が

流れ落ちる火山。

残念ながら有珠山の経験はまったく役に立たなかった。

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