38年前の10月
日本のテレビ番組にとって画期的となる、あるニュース番組が誕生、放送開始していた。久米宏さんの「ニュースステーション」である。
当初、テレビ朝日のこの番組は、NHK内部でも頗る評判が悪く、「あんなものニュースじゃない!NHKは今まで通り正統派で行く。」というのが
報道局の大方の受け止めであった。
つまりこの番組は当時の日本のテレビニュースの中では「異端」であったのだ。
当初視聴率も芳しくなく、一桁台後半をウロウロしていた。
そのNステがにわかに注目され始めたのが1986年(昭和61年)2月「フィリピン政変」であった。
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1965年以来の長期政権となっていたフィリピンのマルコス政権はこの頃独裁色を強め、特に1983年の反政府派のべニグノ・アキノ暗殺事件をきっかけに一般民衆の反発が強まり、この頃連日のように反マルコスデモが続き、警官隊との衝突を繰り返していた。
強まる一方の反マルコスデモを前に次第に力を失っていった。
二月コラソン・アキノが大統領就任式を行い、ついにマラカニアン宮殿を民衆が取り囲み、マルコス夫妻が逃げ出すという事態となった。
ニュースステーションは、この日早河洋プロデューサー(当時)が30分の時間延長を決断。
放送終了の1分30秒前にCNNテレビで中継された米国・シュルツ国務長官の記者会見を流し、マルコス前大統領の亡命および政権崩壊の一報を伝えた。
「Nステ」は、刻刻変わるマニラの状況を例え電話であったとしても、取材者からのフローの情報としてそのまま「生放送」した。
これぞ、求められつつあった「テレビニュース」だった。
私も「Nステ」のマルコス政権崩壊情報を生で見ていたが、あたかも現地マニラで具に見るごとく、生々しい情報であった。
この日のニュースは、後に「ニュース番組を変えたニュース」として伝えられている。
この日は関東地区で19.3%の視聴率を記録した。テレビニュースが変わった瞬間。
NHKニュースも以後、好むと好まざるに関わらず
この「Nステのやり方」が、大きな影響を与えることになる。
Nステは、「小学生でもわかる。」をキヤッチフレーズにしていたが、少なくともNHKを含めて、ニュースに「分かり易さ」を持ち込むことに何故か抵抗があったと思う。
「分かり易さ」はテレビ屋の仕事の大きな特徴であったはずなのに、ニュースの世界だけは別扱いだったのだ。
オフィス21との議論では、毎日のように、
報道「こういうことはニュースではやってはいけないことなんでしょうか」という提案がなされたという。
制作プロダクションという、これまでのテレビニュースの制作現場とは人種の違う人たちが、
「テレビのやり方」のタブー崩しを
やっていたのだ。
現在「報道ステーション」にきつがれたが
大越健介という卓越したアンカーに支えられて、
順調!
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