ゅゅ昭和50年から53年まで3年間勤務した,北海道室蘭市。

1975年当時室蘭は人口16万人

(今人口は8万人弱)

新日鐵や日本製鋼所などの「鉄の街」


そして楢崎造船と国鉄の街でした。

局のすぐ前が国鉄の大きな埠頭。

北海道の石炭積出港でした。

当時室蘭局には

100人ほどの職員がおり、

アナウンサーも8人いました。

ところが

前 前田会長の「改革」が2022年行われ、

今は室蘭局のほとんどの仕事を札幌局に統合、

取材記者がわずかにいるだけになったようです。

OBとしては寂しい限りです。


その新人の頃、この街で見た忘れられない光景があります。

新日鐵の近くに下宿していたのですが、

夜遅く家路を急いでいると

新日鐵の溶鉱炉の方向に

若い職員たちが列を成して出勤するところでした。

見上げると

溶鉱炉の火を投影して空が真っ赤!

赤い空と若い鐵工所職員の列!

この人たちが日本の重工業を支えているんだなあと

しみじみ。

新人時代の強烈な思い出です。


テレビドラマに出てきそうな,不思議な街でした。

街の真ん中に「小公園」と呼ぶ小さな公園があり、

そのすぐ脇に「I」という名の、若い人の溜まり場の小さな喫茶店!

「Iのママ」(名前も知らなかったなあ)と呼ばれていた方が

若い人たちを仕切っていました。


局のすぐ前が「仏坂」と呼ばれていた坂!

由来は?


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なぜ仏坂と呼ばれているのかというと,明治5年に函館から森,森から室蘭まで海路,室蘭から苫小牧付近を通って札幌へぬける札幌本道を大急ぎで開削した際に,この峠でも多くの死者を出したということに由来します.(室蘭の史跡案内より)

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美味いもの?

あんまりなかったなあ!

思い出に残るのは

「ザンギ」と呼ばれた鳥の唐揚げ

よく泊まり勤務の時

先輩に命じられてビールと一緒に買いに行かされました。


思い出に残る仕事①

赴任したその年の12月に、新人アナ憧れの「全中放送(全国放送)」を担当。

国鉄室蘭線で日本で最後となるSLが走るということで、

東京からどっと取材陣がこの小さな町に集まり、

私もカメラマンとペアで1214日、雪の日の最後の運行を沿線から取材。

スタジオ102で放送した。

このSL最後の運行は、その後の国鉄分割民営化に繋がって行く重要な節目なのだが、大学を出たばかりのただ若いだけが取り柄の新人アナにはそういう視点は全くない。

去りゆく、良き時代を惜しむ、感傷的なコメントでこのニュースを伝えるのが精一杯。後々、取材の経験を重ねれば重ねるほど、起きた事実に対するジャーナリスティックな判断力の浅さを思い知ることになる。


思い出に残る仕事②

室蘭3年目の昭和52年夏に有珠山噴火。

噴火前日86日の夜、観光客で賑わう「昭和新山火祭り」が折からの群発地震で地元で不安が広がっているという全国ニュースを室蘭局発で私が読んで伝えていた。

社会部災害班からは、「火山性の地震らしいが、そんなにすぐに噴火に結びつくものではない。」という情報が入ってきた。

私と同期の仲倉カメラマン(201310月死去)は、

少し安心して泊りの通常の仕事に戻った。

翌日も「群発地震続く」のニュースを伝えて、泊まり勤務も一段落した午前9時過ぎ「有珠山噴火」


それから一年後に山形局へ転勤するまで、

降りしきる火山灰の中を右往左往して取材、

火山災害というものの深刻さを認識するとともに、局の食堂の窓から見える、美しい山「有珠山」が地域にこんなにも深刻な被害を与える火山であったことを改めて認識した。 

実は日本列島には、こうした、危険な火山と隣り合わせの生活が多くあることも学んだ。 


3年間の勤務後

昭和53年夏山形へ異動。


一人で赴任しましたが

出て行く時は

妻と二匹の猫の

「家族」になっていました。

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