鈴木 信雄(1898年(明治31年〉〜 1979年(昭和54)
元日弁連副会長

弁護士としては1921年(大正10年)の登録から50年以上に渡って活動し、
その間に生地静岡県における人権擁護などに大きな役割を果たした。
冤罪事件「島田事件」の主任弁護人としても
知られる。

若き日の鈴木信雄弁護士

さて
我妻と婚儀が整って
静岡の義祖父にも挨拶に行くことになり、
義祖父が、そのような偉大な人物であることを
その時初めて知った!

恐る恐る面会した。

がしかし、鈴木信雄翁は
物静かな方で、緊張した僕を
丁寧に迎えていただいた。
しかし眼差しは鋭く「さすが」と思わせるお顔だったのを覚えている。

僕の母が病弱で入退院をくりかえしていることを
申し上げると、
母への「労わり」の言葉を
いただき、
僕に「お母さんを大事にするように」言われた。

以後お目にかかるたびに、僕の母のようすを聞いていただき、「大事にするように」繰り返しいわれたのが
僕の心いつもを揺さぶった。
とにかく優しい方だった。
弱きものへの心遣いの方だった。

だから弁護士として、
立派な仕事をされたのだと思う。

因みに「島田事件」とは
「1954年3月10日に静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人、死体遺棄事件である。被告人が死刑の確定判決を受けたが、
1989年に再審で無罪になった冤罪事件。 四大死刑冤罪事件の一つ。
日本弁護士連合会が支援していた。

赤堀の弁護人には、自民党県支部の重鎮である鈴木信雄松川事件元弁護人であった若手の大蔵弁護士の2人が付いた。

1954年7月2日に初公判。

死刑囚となった赤堀は1961年8月17日に第一次再審請求を行ったが、

1962年(昭和37年)2月28日付で棄却。

1964年(昭和39年)6月6日に第二次再審請求、1966年(昭和41年)2月8日付で棄却された。

同年4月14日に第三次再審請求を行ったが、

1969年(昭和44年)5月9日付で棄却。

1969年に行った第四次再審請求も1977年(昭和52年)3月11日付で静岡地裁が棄却を決定。

赤堀および弁護人は3月14日付で即時抗告を申し立て、これを審理した東京高裁は1983年、静岡地裁の原決定を取り消し、審理を地裁に差し戻すことを決定。

その後、静岡地裁は1986年(昭和61年)5月30日付で検察(静岡地検)側・弁護人側から提出された双方の鑑定結果を吟味した上で「死刑囚・赤堀の自白は被害者の遺体胸部の傷の状況から信用性真実性に疑問がある」などの理由から再審開始・死刑の執行停止を決定。

検察側は即時抗告したが東京高裁は1987年(昭和62年)3月25日付で即時抗告棄却(原決定支持)

検察側が最高裁に特別抗告しなかったために「再審開始」が確定

静岡地裁で1987年10月19日に再審初公判が開かれ、改め証拠調べが行われ、1988年8月8日に静岡地裁で再審論告求刑公判。

そして静岡地検が再び赤堀に死刑を求刑したが弁護人が最終弁論で無罪を主張し、被告人・赤堀も最終意見陳述で改めて無実を訴え、

ついに結審! 

長い闘いであったが、鈴木信雄弁護士は既に他界(昭和54年)されていた。

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