昭和天皇が亡くなって昨日で34年。


以下


あの日の僕の覚書を。


 「その日1月7日は奇しくも土曜日、私がモーニングワイドを担当する日であり、新年に入って最初の放送日であった。いつものように朝4時前には局に到着、打ち合わせの後、眠い目をこすりながらニュース原稿の下読みを開始。

五時過ぎだったか、社会部に「天皇の侍医高木氏が自宅を出た。」という一報が入り、ニュースセンターは突如騒然となった。

「その日」が来たのだろうか?

体全体が緊張してくる。

前日の宮内庁発表では病状は比較的落ち着いているとのことだったが。

その後出た高木侍医執筆の「昭和天皇最後の百十一日」によれば、高木さんが代々木の自宅を出たのは正確には午前55分だったようだ。

因みにこの日の東京の朝の最低気温は4℃だったという。


 とりあえず原稿らしい原稿も持たず私一人スタジオへ。


午前512NHKの放送開始。

手元にあるのは。「高木侍医が自宅を出た。」との短い原稿だけ。

その内皇居各門に皇族方が続々お入りになる映像が原稿より早く飛び込んできた。

その絵の「絵解き」をしながらのいわばアドリブ放送。


自分が勉強した知識や覚えた皇族方の顔を頼りにコメントすることも多くなる。

○○の宮のようです。」間違っていないだろうな、という一抹の不安に晒されながら必死にコメント。


実はこうした事態の場合は、皇室担当の専門記者が私の隣にきて解説することになっていたのだが、 

その記者(当時社会部副部長だった、後に高知県知事となる橋本大二郎氏)がなかなか隣に来てくれないのだ。


後から考えてみれば、橋本記者は相当早く局に到着しスタジオに入っているのだが、一人で放送を続けた時間が無限の長さに感じた。


橋本記者の登場は、午前65分。


  その後も、慌しい皇居の様子を映し出す映像を頼りに、橋本記者の解説も交えながらの放送が続いた。


 政府の動きとして、竹下総理も午前615分には代沢の自宅を出て午前628分に皇居に入っている。


そうこうする内、どうやら事態は最終局面を迎えたという情報もオフレコで。


午前631分に「635分から宮内庁三階講堂で陛下の容体に着いて宮内庁宮尾次長が会見する。」という情報が入って来たのだ。講堂での会見は「最終局面」を意味していた。


そして635分、宮内庁宮尾次長が会見で「天皇陛下午前4時過ぎ、吹上でご危篤になられた。」という内容であった。

ここで私の役目は終わり、

予定通り斎藤季夫アナにバトンタッチ。

私はNCスタジオを出て、しばらく副調整室に待機。

午前755分藤森長官会見「天皇陛下午前633分崩御」「誠に哀痛の極み」という内容であった。ついに「その日」となったのだ。


 天皇崩御の際の告知は、真っ青な画面に白大文字のノルマルテロップで大きく「昭和天皇崩御」と書かれたタイトル文字とチャイム音と決まっていた。

いよいよそれが現実のものとなった。


 その時のニュースセンターの様子を今も忘れることができない。副調整室とその背後のNC大部屋が、立錐の余地のないほど人で埋まっていた。」


それから34年

昭和はすっかり遠くなってしまった!

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