昨夜WCサッカーで日本ドイツに勝利。


正直、サッカーにほとんど興味ない僕には「そうか!」程度のニュースなのだが、

同時に

20年前の2002年「日韓WCサッカー」の感動をフラッシュバックのように思い出した。

2002年のWCサッカーは開催地が決まるまで難航に継ぐ難航。


当時の記録(長文失礼)

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アジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国は「アジア初」を賭けて日本に続く形で1993年11月に立候補を表明。

出遅れた韓国は、1994年にFIFA副会長に選出された鄭夢準大韓サッカー協会会長を先頭にして、現代財閥を中心に韓国国内の政財界をあげての招致活動に乗り出し、

「南北朝鮮共同開催案」を持ち出すなどし日本の招致活動に激しく対抗。

開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本単独開催を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派と欧州サッカー連盟会長のレナート・ヨハンソンを次期FIFA会長にしたい欧州のFIFA理事派の勢力が次期会長職を巡って対立。アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進したが、南米の会長派はあくまでも日本による単独開催を支持。アフリカの理事らの動向がアヴェランジェ会長はFIFA事務局長のゼップ・ブラッターを通して、ヴィダーホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し、非公式に日韓共催案打診の電話をかけさせた。

電話を受けたのは語学が堪能な日本招致委員会実行委員長の岡野俊一郎だった。岡野は電話では不正確として、FIFAの公式文書を求めた。午後3時過ぎ、ブラッターの署名入りのFIFA公式文書がFAXで届いた。その文書には、『既に韓国は1996年5月15日付の文書で日韓共催受け入れをFIFAに回答した。日本の立場をたずねたい』と書かれていた。2時間ほどの協議でも結論は出なかったが、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」になるのは必至だった。ブラッターへの返答刻限が迫る中、招致議連会長の宮澤喜一が「日韓共催は政治にとって悪くない選択だ」と発言。その発言をきっかけに長沼健日本サッカー協会会長はやむを得ず、共同開催案受け入れを決断。

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当時「NHK週刊ニュース」のキャスターだったぼくは、1988年のソウル五輪直前の1ヶ月ソウルに滞在して、韓国に極めて大きな親近感を持っていたこともあり、日産サッカーを大きく取り上げようと決意。

日本国内でも次第に「日韓」がブーム化しつつあったこともあり。

スタッフ一同共感!

開催期間中、毎週毎週「日韓サッカー」をメインテーマにした。

確か、レーティングも上向きに。

あの「熱」はなんだったのだろうか?

あの共同開催で間違いなく、ソウルが近くなった!

今思えば、戦後最大の日韓蜜月だったかもしない。


ちなみに

翌年2003年には大ヒットし更なる韓流ブームの火付け役となった

ドラマ「冬のソナタ」が放送されている

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