1975年(昭和50年)大学卒業。NHKアナウンサーに!

正直ホッとした。

これからはお金の心配しなくていいと思うと嬉しかった。

大学4年間はアルバイトに次ぐアルバイト。

ゼミの先生から、「たまには学校に来い。」と言われたりした。

「苦学生」そのもの。

苦しい4年間だった⁉️

入学が決まった瞬間、親族一同「おめでとう」ではなく

「お金どうすんねん?」

その日からアルバイト探し。

まず繁華街四条の喫茶店のウェイターに決まり。

これは全く向いてなかっな!

1ヶ月で敗退。

それからさまざまなバイトを渡り歩いたがどれも長続きせず、当然学費の足しにはなり得なかった⁉️

そんな状況が劇的に変わったのは、入学時に入った学生放送局RBCの先輩からのお誘い⁉️

RBCの先輩たちの多くが、地元京都の「KBS京都放送」に就職していたが、

当時の「近畿放送」KBS京都のバイトを紹介してくれたのだ。

まず、今も続く山崎弘士アナウンサーの担当「GOGO電リク」という番組のリクエスト受付電話係。

週一土曜日の番組で、バイト代は¥1000。

ただ番組終わって局向いのレストランて¥1000の洋食弁当食べたらそれでおしまい⁉️


電リクアルバイトの頃の僕(右)と学生放送局の友

伊藤治明くん(のちにUHB北海道文化放送アナ)

髪長かったんや


学費の足しにはならへん!

しかし拾うかみあり、

同じKBSの制作課長のSさんからいい話!

サテライトスタジオの生ワイドのADのお誘い!

デイリーの仕事、バイト代もかなり高い!

やっと一息。

更にこの時一緒にADやった先輩からの紹介で、報道の泊まりのアルバイトも。

ほぼ徹宵勤務で、泊まり記者の手伝い(新聞社では「坊や」と呼ぶバイト)

火事があったらカメラマンについてライトマン。

ブレーキングニュースのある夜は、カチカチと共同通信ラテ部から送られてくるFAXをちぎって

赤のデルマで原稿切って泊まりアナウンサーへ手渡しの仕事。

(いい加減な放送局だったなあ!)

そしてさらに更に、高校の同級生三人で「学習塾」開設。

世はまさに「学習塾ブーム」みるみるうちに小学生や中学生が沢山集まった!

これは正直儲かりました⁉️

それやこれやで、朝昼晩夜中と働き詰め⁉️

お陰で授業料くらい賄えました!


あまりの儲けに頭も少し変だったのか、無駄遣いも。

気がついたら、授業料納入期になんと「金が足らん⁉️」

この危機を救ってくれたのは当時付き合っていた彼女!

親からの仕送りの一部を貸してくれました。ありがたかった。

今の妻。

踏み倒した⁉️

だから

借金のかたに結婚した!(のではありません)

その後NHKに入って初任給をもらったら、その少なさにびっくり⁉️

(確か¥74000?)

(バイト時代は、ゆうに¥100000を超えていた!)

社会人になって減収した 😵

我が大学時代はバイト時代でした!

50年前の話。

懐かしさとほろ苦さと共に。

思い出したら 涙出た😂

よう頑張ったなあ

50年前の自分の写真見て

あの頃の「気持ち」思い出した!


いつも「不安感」を抱えて、

土砂降りの中を、「全速力」で走っていたなあ‼︎


あの時代の自分を褒めてやりたい!

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