私の沖縄局長としての仕事は二つ!
一つは、全国ただひとつ、富城村という『村』にあった放送会館を
那覇市に移転させること。
二つ目が、その新会館で沖縄初の地上デジタル放送を開始することであった!
さて、
3月6日の午前0時、旧会館の放送スイッチをOFFにし、同時におもろまちの新会館で放送体制をONにする操作が行われ、NHK沖縄の演奏所は無事新しい放送会館移ったのだ。
ところがである。その日のお昼過ぎだったか、
放送部門の責任者である放送部長が真っ青な顔で局長室に駆け込んできた!
『局長、すみません、引越しの際パソコンが一台無くなっています。何回探しても見つからないんです。」と。
私が「何が入っていたのか?」と聞くと、
「沖縄戦を描くシリーズの応募者の住所など個人情報が入っています。」というではないか!
NHK沖縄局では、2005年の戦後60年の企画として、沖縄戦の体験者に当時の体験を絵に描いてもらおうというキャンペーンを展開していた。
毎日夕方の番組とで紹介し、 その後まとめて画集にしようとという企画であった。
沖縄県民にとっても戦後60年たって記憶が風化し、体験者の高齢化で語り継ぐこと自体が難しくなっていた。
しかし、今の内に伝えておこうという体験者の機運もあり、予想以上に多くの方から作品が寄せられていた。その人たちの個人情報なのだ。
とにかく繰り返し豊見城の元の会館内を徹底的に探すことにしたが、どうしても見つからないのだ。
上位局の福岡や東京と協議し、とにかく早くこの事態を公表することにした。
沖縄局では3月11日の新会館オープン記念式典を控えていて、
公表を躊躇すれば
「隠した」と思われるとの私の判断であった。
しかも、この時、念願のドラマ「ちゅらさん」の続編「ちゅらさん4」の記者発表も控えていたのだ。
お祝い気分も吹き飛んで憂鬱な展開となった!
しょうがない。とにかく県民の皆様にお詫びするしかないと決心。その日の内に記者会見を設定し「お詫び」すると同時に、「沖縄戦の絵」の応募者一人一人にお電話してお詫びすることを放送部長に指示した。
そして「ちゅらさん4」の記者発表については、臨時に広報担当に任命した、沖縄局編成のベテラン職員にNHKの広報担当として会見に立ち会ってもらった。
そしてやや複雑な気分で3月11日に「NHK新沖縄放送会館オープン記念式典」を迎えたのだ。
東京から列席された橋元会長に、この件につき深々と頭を下げてお詫びした。実はその後も「パソコン探し」は続けたのだが、やはり出てこなかった。
今持って「謎」である。
この事態で私は、
NHK入局以来初めて「処分」を受けた。
担当の報道の副部長とともに「けん責処分」となった。
1が月後の平成18年4月1日、沖縄県での地上デジタル放送も無事スタートさせ、会長から指示された二つの課題をクリアしてその年6月の管理職異動で東京へ戻ることになった。
ただ、「譴責処分」を受けていると身ゆえ、異動そのものも何かお咎めがあるに違いないと覚悟していた。
ところがである。異動先は放送総局ラジオセンター長(他局で言うラジオ局長)で、
本部の局長にアナウンサー出身者がなることはこれまで例がなく、
誰の目から見ても栄転であったから不思議だ。
しかも処遇も「局長級」となり、年俸も上がることに。橋元会長からは、「処分は受けたがが、沖縄でのあなたの業績は余りあるものがある。」との嬉しいお言葉も頂戴した。
ただ、失くしたパソコンについては、未だに釈然としない。
「人生いろいろ」である。
それにしても
あのパソコンは何処へいたんだろう?
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