親父は、2014年平成26年10月18日早朝88歳で亡くなった。

故郷京都から遠く離れた、大阪の南の果ての病院で、一人旅立った❗️

三男が京都から車を飛ばして駆けつけたが間に合わず、家族は誰も死に目に会えなかった。

寂しい旅立ちだった。

何故親父がそんな遠方にいたのか?

当時親父の面倒を見ていた三男の決断であり、本人の希望もあったらしいから

しょうがなかったが、やっぱり今となっては悔やまれる。最後まで京都に帰りたいと言っていたと聞く。


大正15年生まれ。

川端家の長男としてこの世に出た。

幼くして父を失い、母の手で育てられた。

当時の、高等小学校卒。

その後親父がどのような仕事をしていたが

よくわからないが、長じて

舞鶴の海軍へ『徴用工』として『入隊』。

「海軍に行った」というのが親父の自慢で、最初は、水兵さんのような素敵な姿を想像していたが、よくよく聞いたら『徴用工」として働いていたらしい。

終戦で、海軍時代の持ち物を大きな袋に

持てるだけ持って舞鶴駅から京都に帰る時、ドサクサの中で、全部盗られたという話を、何回も何回も悔しそうに話していたのを記憶している。

親父は戦後は、『旋盤工」としてあちこちの会社にいたらしいが詳細不明。

大阪にも通ったらしいが、わからない。

生前、親父の軌跡をもっと聞いておくべきだったと少し後悔している。

僕が中学生の頃は、家の近くの小さな町工場で

来る日も来る日も、油まみれで

旋盤を引いていた。

それが、僕の『親父像』

250ccのバイクを颯爽と乗り回していたこともある。それも僕の親父像のひとつ。


大阪の介護施設にいた頃の親父。



僕が高校を卒業して一浪。

予備校の費用はどう捻出したのか?

大学も私学だったから、

多額の、入学時一時金はどう捻出したのか知らなかった。呑気な長男だった。

大学生になってからは、朝 昼 晩とアルバイトに勤しみ、なんとか授業料を自ら捻出して、なんとか卒業。

NHKにアナウンサーとして採用されたときは、

多分喜んだと思えばう。

多分というのは、母が大喜びした様子は鮮明に覚えているが、

親父が喜んだ記憶げないのだ。

淡々とした父子関係で、親孝行らしいこともあんまり出来なかった。

その親父が亡くなって10年近く経つ。

母に会いに京都に墓参りにたびたび行くが、

「お母ちゃん 来たで」とお墓に向かって僕が声をかけると、墓石の後ろから、「わしもいるで」と親父の声が聞こえるような気がする❗️


ただ一度、随分後になって、ぼくが

19時ニュースのキャスターになった時、母校の小学校の周年記念行事の際記念講演を頼まれ、故郷に錦を飾る形で講演した時、会場の片隅で涙を流しながら父が見ていたと、叔母が教えてくれた。

少し、親孝行できたかなあと。

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