今回は

沖縄のジャーナリズムについて。

実は局長として沖縄に住み始めた頃

一番びっくりしたのは

全国紙か来ないこと。朝毎読は夕方配達される!

県民の半分は

琉球新報

もう半分は

沖縄タイムス

全国紙は

一部企業と.われわれマスコミだけか見ていた⁉️

一体沖縄のジャーナリズムはどんな経緯があるのか?


  戦前、沖縄には、沖縄朝日、沖縄日報、琉球新報があり、太平洋戦争下、沖縄新報に統

 合された。

昭和 20年四月、米軍は艦船 1,400隻、7個師団 183千人で、沖縄本島西岸に上陸を 開始。

首里での攻防後、戦線は南部に移り

6月末、沖縄戦は終わった。

沖縄県民の死者 は当時の県民の3分の1に当たる 

15万人余にのぼる。


『沖縄タイムス三十年史』によると、

沖縄戦の猛火の中、2カ所で「陣中新聞」が発行された。 



深夜ローソクの光で文選、植字、印刷、タブロイド2頁の印刷は、2日に1回が週に1回になったり

した。

千部印刷、青年団らが各壕に無料配布した。

  陣中新聞は軍司令部の要請を受け、戦意高揚記事を載せた点で、

戦争協力に加担するものであった。



証言

太平洋戦争の傷跡が今も残る中、平和を求めて、各紙は真摯な地域報道に励み、沖縄の 市民は地元紙を愛していると痛感した,

(フィールドワークをした大学関係者)


吉岡至氏の話

(@関西大学,社会学部,教授, 研究分野:社会学,社会学(含社会福祉関係),政治学)


「2004 8 13日午後 2 18分、沖縄国際大学本館ビルに米軍ヘリコプター CH53Dが墜落・激突・爆発,、米兵乗務員の 3 名が重軽傷を負う事故が 発生した。この「事故」は、その現場が米軍の管理下に置かれたことで、ただ ちに「事件」となった。その「事件」はただちにニュースメディアが「報道」 するところとなった。この一連の「出来事」は、筆者が沖縄のジャーナリズム に関心を寄せる「契機」にもなった

事件第一報を伝える日本本土のマスメディアも、読売巨人軍の渡辺オーナーの辞任は大々的に報じても、米軍ヘリが大学構内に墜落した大事件は「良心的」全国紙でさえわずかなスペースしか割かなかった。

名が重軽傷を負う事故が 発生したこの「事故」は、その現場が米軍の管理下に置かれたことで、ただ ちに「事件」となった。その「事件」はただちにニュースメディアが 

「報道」 するところとなった。



復帰後も

ジャーナリズムの世界では

本土との乖離があった。




私の経験


当時、NHK沖縄局長だった私もまた

歯軋りの日だった!

その日 我「ニュース7」は

この事件をなんと番組末尾の

フラッシュニュースで小さく扱った⁉️

直ちに東京に抗議したが、

報道幹部曰く

「誰も死んでいないじゃないか!」

あんぐりした。

大学の学内に、しかも建物にぶつかるように

米軍ヘリは墜落した。

大変な事故だ!

この意識の乖離はなんだ!

悔しかったのはわれわれジャーナリストだけではなかった。

駆けつけた沖縄県警は米軍にはばまれて

現場に一歩も入れなかったのだ!

当時の 髙橋本部長の悔しさはいかばかりか❗️


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