まずは証言から
花城松枝
元OHK(沖縄放送協会 )アナウンサー
「5月15 日午前0時、JOAP(NHK沖縄放送局)のコールサイン字幕でOHKからNHKへ移行
致しました。」
OHK(沖縄放送協会)はNHKとなりました。
では
そもそもOHKとはなんだったのか?
どのような経緯だったのか?
沖縄放送協会は、
アメリカの施政権下にあった沖縄に設立された公共放送の特殊法人、略称OHK。
沖縄の「放送法」(1967年)に基づき、沖縄全域で受信できるようにラジオ放送およびテレビ放送を行うことを目的として設立された。しかし実際には、ラジオ放送は実施されなかった。
1972年5月15日沖縄の日本返還に伴って日本放送協会(NHK)に事業を承継し、NHK沖縄放送局に改組。
前史
実は
戦前沖縄には
NHKかありました。
1942年3月那覇市に社団法人日本放送協会(NHK)
が沖縄放送局を開設しました。
今の首里に。
呼び出し符号はJOAP。
戦時下のため、無線ではなく、
電灯線切り替え放送(?)でした。
→電灯線を通信回線として利用するラジオ。
しかし
沖縄の地上戦の中で、1945年の那覇空襲て
機能停止。三日後沖縄放送局は閉鎖。
戦後1961年10月、16年半ぶりに
NHK那覇通信局開設。
1964年には、NHKは沖縄へ番組提供始めました。
NHKの番組が、沖縄テレビと琉球放送から
CM付きで放送されるようになった。
ちなみに「紅白」もコマーシャル付きで
放送されたのです。
NHKは、1964年9月那覇総局開設。取材拠点となりました。
因みに那覇総局勤務は海外特派員扱いでした。
そして
1972年5月15日に沖縄本土復帰で
NHK沖縄放送局がOHKを引き継ぎ
豊見城のOHK放送会館に入り、
旧OHK放送会館
放送を開始したのでした。
ここからは私、川端の仕事。
2006年おもろまちに新会館建設し、
後にデジタル放送も始めました。
(NHK沖縄放送局新会館 おもろまち)
実は旧会館から新会館移転では
大変な事態がいくつもり招来しました。
局長生活は順調に進み、大きな課題の一つ、「新放送会館」建設も2004年の起工式以後順調に進んでいたが、難題も出てきた。
その一つは、建設現場から次々に「不発弾」が見つかったこと。
新会館の建設現場である那覇市の新都心というところは、沖縄戦では激戦が繰り広げられ、あまりの戦死者の多さに、米軍ではこの地を「ミートローフ」と呼んでいたという話も残っている。米軍上陸前は雨あられと艦砲射撃が打ち込まれ、空襲での爆弾投下も激しかった所であった。沖縄では当たり前のことだが、何か建設しようと基礎工事をすると山ほど「不発弾」が出てくる。NHKの新会館建設現場も事前に地下の様子をX線で検査したところ様々な「異物」があることがわかっていたので、予想はしていたが、実際に工事が始まると出てくること出てくること。結局大小30発ほどの不発弾が見つかり、いちいち警察がしゅつどうし、米軍が処理するというプロセスを繰り返していた。工期の遅れが心配されたが、何とか工事関係者の努力もあり、切り抜けた。
もうひとつ、地域住民とのトラブルも発生した。
新放送会館の建設現場のすぐ隣のマンションの一部の住民が「電波の出る放送局は、子供達に危険だ。」と荒唐無稽な心配をし、地域で建設反対運動を始めていたのだ。ちなみに新会館は、いわゆる「演奏所」で放送電波はここから豊見城の放送所に送り、豊見城のタワーから電波が出る仕組み。この説明を何度してもわかって貰えなかった。もともとNHKに何か恨みでもあるようだった。挙句渋谷のセンターに膨大な量の情報公開請求。往生しました。変な週刊誌には書かれるし。地元新聞に投書は出るし、一時は夜も寝られない位困りました。
ちなみに、元の豊見城の会館は
放送所としてテレビ塔と共に引き継ぎ使用。
今でもこの送信所から
共用のOTV会長共に、デジタル電波発射の
ボタンを押した瞬間の感激は忘れられません。
##################