50年前のその日あなたは?
1972年5月15日
沖縄返還の日
人々はどうとらえたか?
Q50年前の5/15復帰の日
あなたはどこにいて
何をしていましたか?
Q本土復帰をどう思いましたか?
さまざまな人たちにきいてみました。
田中清士
元NHK社会部長
初任地青森で四年目を迎えていました。遊軍兼市役所担当でした。
青森県内には自衛隊の陸海空の施設と米軍三沢基地がありその関連の資料を集めたり番組を作ったりしていました。後に社会部で防衛庁を担当した時に大いに役に立ちました。
従って沖縄の変換には大いに感心を持っていました。
僕は防衛庁の後は遊軍に居ましたがその時、全国の在日米軍基地の基本的資料を一冊の本にして全国の各局に配布しました。しかし残念ながらその後、そんな手間暇かけた資料作りは行われていません。
なお、同じく社会部の時に沖縄730で一週間、沖縄に出張し全中企画を出しました。
吉村秀實元NHK社会部記者
NHK記者になって9年目、NHK静岡放送局から
6年目にしてようやく東京転勤となりましたが、
相変わらずの事件記者生活で、「沖縄復帰の日」は、
警察庁記者クラブの担当記者でした。
警察庁交通局は復帰によって、道路交通法が左側通行から右側通行に変わることで、
沖縄の道路交通に混乱が起きないよう、事前の準備から大変でした。
殆ど混乱なく、復帰することができました。
一応戦前の生まれですから沖縄の人達の戦中戦後の苦労を知っていましたので、単純に復帰を大変うれしく思いました。
岡田俊朗元NHK報道局プロデューサー
47年5月は、大学4年生でした。公務員試験の傍ら、最後だからとどこかのデモに参加したと思っていました。定かではありません。
② 本土並み返還が無理みたいなので、沖縄独立論にシンパシーを持っていましたが、経済的に無理か、でも、やってみなければ分からないではと思っていました。
大濱聰さん
元NHK沖縄プロデューサー
①東京の職場で仕事をしていました。TVの復帰記念式典をながら視聴しました。
②長年の復帰運動が実り、無国籍状態から憲法下に帰れる喜びと、沖縄が願望していた基地の全面撤去が叶わなかった怒り、失望が混じった複雑な気持ちでいました。
永田浩三(武蔵大学教員 元NHKディレクター)
大阪の府立高校の2年生でした。リベラルな学校で、授業をつぶして生徒が自主的に沖縄のことを一週間学び、議論し、発表しあいました。
当時わたしは、「沖縄独立」こそ正しいなどと、頭でっかちなことを考えておりました。
奄美の本土復帰運動については一生懸命調べ、本にまとめたことがあります。当時復帰運動の先頭にたっておられた方のお話で、忘れられない言葉は、これで日本国憲法が自分たちにもやってくるというものでした。ジャーナリストの森口豁さんの教えを受けながら、ここ5年あまり、沖縄の復帰運動について学んでいます。当時の願いが踏みにじられ、蹂躙されつづけた半世紀という思いが強いです。
ジャーナリストの森口豁さんの教えを受けながら、ここ5年あまり、沖縄の復帰運動について学んでいます。当時の願いが踏みにじられ、蹂躙されつづけた半世紀という思いが強いです。
元NHKアナウンサー 元厚生労働大臣
小宮山洋子さん
私は、NHKに入局したてでした。
本土復帰は、やっと実現した、と思いました。
女優 池波志乃さん
当時17歳。
15歳から新劇の劇団養成所で2年間訓練するも、劇団が解散。
この年から新国劇で劇団の先輩の付き人をしながら舞台で通行人や端役をこなし…見て覚えることと、忙しさで月日の記憶がありません。
状況が上記のようだったので私がボーッと生きていたせいかもしれませんが、、それまで、沖縄の情報が少なく、生活の中で語られることもなく(ニュースとしては知っていましたが)、、
「あぁ、やっと決まったんだな、良かったな。伝統音楽や舞踊も見られるな」
恥ずかしながらその程度でした。
俳優 中尾あきらさん
当時29歳。すでに俳優でした。その2年前にパスポートを持ってロケに行きました。ホテルはなく万座毛のカマボコ型兵舎をどうにかしたような宿泊施設と那覇市をトラックで往復、1号線の砂けむりをおぼえています。。那覇の街の様子も食べた物も、、良い意味で興味深かったです。
パスポートがいらない!
また行かれる!!
元日銀那覇支店長
大澤真さん
父の転勤で移った福島県郡山市在住の中学2年生でした。その父がその3年後に沖縄に転勤となり(75〜76年。まだ車は右側通行でした)、私も含め父子二代に亘る沖縄勤務を経験することになるとは微塵も思っていませんでした。
(その時の気持ち)
恥ずかしながら全く記憶がありません。
沖縄の老舗ホテル幹部
斎川慶一さん
50年前となるとかなり記憶から遠ざかっておりますが、当時21歳の学生でした。
残念ですが、沖縄復帰に関するニュースを鮮明に記憶している訳ではありませんが、当時
革新の屋良知事が復帰に向けて日米政府を相手の折衝で大変なご苦労をされた事をそれと
なく覚えております。その時は、単純に日本に復帰されたことを素直に喜んでいた一人だ
たように思います。
それまで全く縁がなかった沖縄でしたが、復帰した2年後、夏の間アルバイトをしていた
山小屋(北穂高小屋)親方が褒賞旅行で沖縄(本島・石垣)に連れて来ていただいたのが
生まれて初めて訪れた沖縄でした。その10年後の1981年に万座ビーチ開業準備室に赴任
しようとは夢にも思っておりませんでした。間は空きましたが、今日までご縁をいただき
約20年間に渡りこの沖縄で働くことになろうとは、夢ゆめ思ってもいませんでした。
復帰50周年を迎え、ナイチャーではありますが、恐らく復帰無くして今日の沖縄の観光産業の発展は成し得なかったのではないかと思ってます。これが素直な感想です。
花城松枝
当時 OHK(沖縄放送協会 )職員
5\15 午前0時、JOAP(NHK沖縄放送局)のコールサイン字幕でOHKからNHKへ以降致しました。
50年前、72年5/15は朝から復帰式典他番組編成の仕事に従事。
本土復帰については複雑な思いでした。理由は「必ずしも県民の思いに沿った復帰ではない」事と琉球独立論に固執する人達の論理も理解出来なくはなかったからです。
柳川喜郎元NHK記者
Q14月末まで初の北朝鮮取材(団長川原正人)から帰り、よど号ハイジャック犯人会見、高松塚関連高麗古墳壁画などドキュメンタリー製作中。
Q2一つの時代の節目。
林起生元NHK営業職員
① 50年前の5/15復帰の日あなたはどこにいましたか
その年はNHK福岡局(当時は福岡市中央区天神)の営業部で仕事をしておりました。
当時営業部は局内ではなく中央区赤坂の新日本ビルの3階にあってそこで仕事を
しておりました。
そして復帰の2年後だったと思いますが転勤で沖縄局営業部に異動しました。
② 本土復帰をどう思いましたか
沖縄本土復帰後、NHK沖縄放送局として放送が始まりましたが県民からはNHKの認識も浅く本土との格差が大きく、放送受信料の理解はまったくなかった。
その中での営業活動は想像以上に
大変でした。
沖縄の人達は、NHKに対しこんな風に言っていました。「本土復帰して勝手にNHKが沖縄に来て受信料を払うのはおかしい」
私は沖縄に来て本当に沖縄が本土復帰してよかったのかと疑問に思いました。
50年経った今では沖縄県民から親しまれるNHKとして指示されるようになった。
「ちゅらさん」の朝ドラは沖縄県民が誰もが知る番組となった。
そして私自身は京都の大学の法学部の2回生。
実はほとんど覚えてないのですが、
その日のニュース映像で、式典を見ました。
政府主催の沖縄は返還記念式典には、昭和天皇もご臨席。
佐藤栄作首相が。「日本国万歳」に続き「天皇陛下万歳」と
万歳三唱したのは、違和感を感じたのを覚えています。
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