今回は現役アナの意見です。
まずは、ラジオ第一放送夕方の「Nラジ」のアンカー
真下貴アナウンサーの意見。
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真下貴アナウンサー
「まずはやはり現場に育てていただきました。
大きかったのは、
1995年の阪神淡路大震災です。
私の想像など遙かに超えた災害で、
ただ被災した人たちの話に耳を傾けるしかありませんでした。
そこで大事にしたことは、「エライ人が言うことより、現場で答えて下さった方の話の方が
優先だ」ということです。
震災からしばらくすると「復興に向けた話をしてほしい」などのオーダーが寄せられることになります。
しかし、現場では「復興」などほど遠い現実がありました。
何度も東京とは
けんか腰のやりとりになりました。
それでも、被災して厳しい状況のなか取材に答えて下さった方を裏切ることはできませんでした。
原点は、震災当日の朝、激しい揺れの後、出局する際に乗せてくれたタクシー運転手の方の言葉でした。
ビルは傾き、あちこちから黒煙が上がる。道路は陥没して波打っている状況の中、タクシーも自宅の様子を見に帰るため全く停まってくれませんでした。
自宅から出て歩きながら手を挙げ続けていると、1台のタクシーがとまってくれました。
自宅と方向が同じだから乗せていってくれると言います。
局前について私が料金を払おうとすると、運転手さんは「いらない」といいます。
そんなわけにはいかないとしばらく押し問答をしていると、
運転手さんが大声で振り返りながら
「もうええから、はよ降りてくれ! あんたもテレビ局で働いているんやったら、はよ行ってこの状況を全国の人に伝えてくれや!」
と言ったのです。
このことばがずっと耳に残って今日までやってきました。
だから、その声を聞いて伝えようと思いました。
これを「取材」とよぶのかどうかもわかりませんが、私の原点はここにあります。
スタジオも「取材」
「話を聞く」ことが大事なのは、それが現場だけではないからだと感じています。
別の言い方をすれば、スタジオも「現場」だと思います。
1999年の茨城県東海村のJCOによる臨界事故のときのことです。
当時。午前10時のニュースを担当していた私はニュースセンターでスタンバイをしていました。
すると、東海村で何か放射能漏れが起きているらしいという一報が入りました。
9時23分から2分間のステブレ(番組PR)の時間を使って特設ニュースをやることになりスタジオ入り。
どこまでニュースをやるのか全くわからない状態になりました。
手元にある断片的な情報をひたすら繰り返していると
科学文化部の記者がスタジオに入ってきました。
Q&Aなど何もありません。
当時「臨界」と言われても「臨海工業地域」の「臨海」くらいしか思い浮かばない無知な私としては何を聞けばいいのかわかりません。
生放送ではあるのですが、もうそこはスタジオの記者に「取材」するしかありませんでした。
2時間ほどの特設ニュースを終えて、後のアナウンサーに引き継いだ後、上司から「よくわかった」と言われました。
何もわからない私が学んでいく姿が、そのまま視聴者に順番に情報を伝えていくことになったのです。
同じ手法は、北朝鮮のテポドン発射や、ISイスラミックステートによる邦人殺害の特設Nでもいかすことができました。
スタジオパークからこんにちはを担当したときは、本番の30分前に10分ほど、芸能人のゲストの方と打ち合わせをするのですが
ディレクターが内容の説明をしているときに、ゲストの方がどんな「表情」をするかを見ていました。
のっているのか、つまらなそうな顔をしているのかで判断してそのエピソードが面白くなるか
早めに終わった方がいいのか考えていました。
「表情の取材」は時間がない中で番組がうまくいくかに欠かせないものでした。
私が後輩のアナウンサーに話せることがあるとしたら
放送で「何を伝えるか」を知るために、現場の人に「取材」する。
目の前にいる人が「取材」相手
(真下貴)
(文責 川端義明)
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今回は、現役アナウンサーの意見
(1)真下貴アナでした。
次回も現役アナの意見をご紹介します。
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