では

取材の出来るアナウンサーとは、

どんなアナウンサーなのか?

取材の力はどう鍛えるのか?


答えは現場を踏むアナウンサー。

現場での経験から学ぶしかないのです。


まず私の経験を開陳します。

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国電同時多発ゲリラ事件

1985年(昭和60年)11月29日。この日午前三時頃、首都圏や大阪地区など8都府県の線路の通信用ケーブルが切断され、首都圏のほとんどの列車が止るなど、通勤通学客600万人に影響が出た大事件。

この日はヘリコプターで空からの取材を担当。

通勤通学客で混雑するターミナル駅の様子などを空からの生中継でリポートしていたが、その途上、国電浅草橋駅から上空高く煙が立ち昇るのを確認!すぐさま生でリポート。国電ゲリラ事件の犯人グループが東京台東区の総武線浅草橋駅にシャッターをこじ開けて侵入、駅施設を破壊し、火炎瓶を投げつけて放火した事件。浅草橋駅は駅舎がほぼ焼け落ちた。

NHKは私の空からの発見で、いち早くこの事件を放送した!以後ヘリコプターでの取材・放送が私の重要な仕事のひとつとなり、事件事故自然災害などでヘリに乗る生活が続いた。


このようにして東京で報道の仕事を始めた私は、リポーターとして空から地上からと、現場を飛び回っていた。報道腕章とテレビ音声がモニタすっししーできるラジオ、それに簡単な「お泊り道具」を常に待っていた。事件事故で現場へ急行し、そのままいつ帰れるかわからない経験も多かったので、いつも二三日は泊まれる準備はしていた。この頃アナウンス室の報道担当デスクは私のことを「鉄砲玉」と読んでいた。

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鉄砲玉として現場を

数多く踏んだことが、次第に

私の「現場でで取材する力」は磨かれていった。

この時、アナ室の報道担当デスクはアナウンサーの私が現場からリポートすることを期待していなかった。むしろアナとして機能しなくても現場に出すことを優先して私に、「現場経験」を付けようとしていた。こういう育成の仕方もある。


組織的な取り組みも必要。


昭和60年夏、報道局の中に「特報部」という選り抜き集団が結成された直後から、「アナウンサーも」という組織的願望があったようだが、2年後の87年になってようやく実現。私と46年入局のIアナが、特報部兼務となって、「G1グループ」と言われた特ダネを取るのが目的の精鋭集団に配属された。特報部へ行く際、アナウンス室からは、「当面画面に顔を出すことはこだわらず、特報部員として取材に精励せよ!」との言葉を背に、兼務とは言え、二度と帰らないつもりでアナウンス室を後にしたのだ。私とIアナは、社会特報部の遊軍グループの仕事をしながら、来る日も来る日も「特ダネ」を求めてネタ探しに明け暮れることになった。

日々のニュース取材でも、

JIS規格で決められた電動車椅子のスピードが遅すぎて歩道を渡りきれないなど危険なため、

通産省工業技術院がJIS規格の改定に乗り出したという、小さいが影響力の大きいニュースをスクープ。特報部長賞を貰ったりしたのもこの頃。


 その後私は、番組制作も体験。

NHK特集「土地は誰のものか」プロジェクト(通称土地プロ)へ配属になり、NHK特集の制作・取材を担当することになった。

この頃から日本国内で地価が暴騰し、8月地価高騰で東京都全域が土地取引監視区域となり、

「地価暴騰」という言葉が紙面や画面を賑わしていた。

こうした組織的な取り組みも、

「取材」「制作」出来るアナウンサーを

育てることが出来るのだ。

地方局にいても取材力の涵養は

十分可能だ。事項に。

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